スマイルログ

SMILE LOG

神戸・阪神間・兵庫

倚松庵から富田砕花旧居へ「文豪 谷崎潤一郎」と歩く阪神間文学ロード散歩

投稿日:2017-11-03 更新日:

Hamzo
阪神間と谷崎文学!

11月に入って生活のまわりの景色もずいぶん秋色になってきましたねー
見上げる山の木々は所々ほんのり色づき始め、落葉を前にした街路樹のケヤキ並木の葉は黄色く染まっています。

観光日本の秋といえば葉」。これから各地では紅葉のハイシーズンを迎えます。秋の代表的なたとえとしてよく言われるのが「食欲の秋」と「読書の秋」。一年の中でも最も過ごしやすく、夜の長い秋は静かに読書をするのには確かにぴったりの季節ですね!

今回はこの季節になるとふと立ち寄ってみたくなる、文豪 谷崎潤一郎の阪神間ゆかりの場所を、カメラ片手にのんびりとまわってみたいと思います。

倚松庵


神戸市東灘区は住吉川の畔に、洋風住宅の多い神戸の街では少し珍しい木造数寄屋建築が控えめに佇んでいます。

倚松庵(いしょうあん)は昭和4年(1929)築の木造建物で、谷崎潤一郎が50歳の昭和11年(1936年)から57歳の昭和18年(1943年)まで居住した、神戸市の歴史的建造物のひとつです。現代のこの場所では少し目を引く趣の建物ですが、昭和初期の阪神地方の中流住宅の典型だったようです。

谷崎潤一郎は東京・日本橋の商家で生まれ育った江戸っ子ですが、1923年の関東大震災をきっかけに関西に移住し、その後暮らした自然豊かな「阪神間」の地をこよなく愛しました。この倚松庵は、松子夫人やその妹たちをモデルとした長編小説「細雪」の舞台となった事でも有名です。

倚松庵とは松に寄りかかっている住まいという意味で、松子夫人への愛情を表すと言われています。


谷崎氏は大の引っ越し好きだったそうで、関東大震災以降、阪神間で過ごした21年の間に13回も引っ越しを繰り返したとか・・

その間の7年をこの倚松庵で暮らしていたという事は、めちゃめちゃお気に入りのお住まいだったのでしょうね。

岡本や魚崎など住吉川を挟んで西に東に転居を繰り返した谷崎氏は、水の流れのそばが好きだったそうです。阪神間には海・山・川があり緑も多い。そんなロケーションがこの地を気に入った理由かも分かりませんね。

倚松庵(一階 応接室)

日本建築の外観ですが、1階の半分は洋風の仕上げになっています。応接間にはフローリングの床が敷きこまれ、マントルピースやステンドグラスなどをしつらえた和洋折衷のテイストは、大正から昭和の阪神間モダニズム文化を感じます。

間取りや装飾、庭園など、小説の記述をほうふつとさせるポイントが随所にあり、各部屋にゆかりの一節が掲示されています。応接室の本棚には谷崎小説がびっしり詰まっていて、天気の良い日には縁側に腰かけて短編ぐらいは読めちゃうロケーションです。

倚松庵(二階 八畳間)

2階の3部屋は全て和室で、なかでも8畳間は、「細雪」冒頭の「こいさん、頼むわ。―鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると~」から始まるシーンがこの部屋を舞台に描写されています。

ちなみに、「こいさん」とは「小娘さん(こいとさん)」の略で、昔、大阪の家庭では一番末の娘をこう呼んでいたようです。

この建物で印象的なのは、とても採光が良いという点。天気の良い昼間は、光が入らない部屋は無いんじゃないか?と思うぐらい明るく、屋内に差し込む光がポカポカと暖かく、いつまでも庭を眺めながら日向ぼっこしていたくなる感じ。

ほっこり寛いだら、神戸市東灘区の倚松庵を後に芦屋方面へ向かいます。

芦屋川沿いを歩く

谷崎潤一郎の「細雪」は昭和10年代、大阪船場の蒔岡家(まきおか)の美しい四姉妹を描いた作品ですが、そのメイン舞台は芦屋市。 その中心を流れる芦屋川沿いには谷崎潤一郎の面影が今も残されています。

芦屋川は全長が6キロメートル余りの、芦屋市内では最大級の河川。長年の土砂の堆積によって川床がまわりの平地よりも高くなっている天井川です。川を挟んだ両岸の道は静かで、そのまま南下していくと河原の遊歩道にも降りられます。芦屋川は春には両岸に桜が咲き誇る桜の名所として有名な場所ですよね。

小説「細雪」文学碑

阪急芦屋川駅の直ぐ北にある開森橋の東側には、細雪の文学碑があります。1986年に谷崎潤一郎の生誕100年を記念し、芦屋川から運ばれてきた花崗岩で建てられました。題字の"細雪"は谷崎松子夫人の書です。

芦屋川駅から少し下ると「細雪」によく出てくる国道2号線の業平橋があります。

業平橋

「…今日はそう云う大雨なので、学校まで悦子を送り届けて置いて、帰って来たのは八時半頃であっただろうか。途中彼女は、余り降り方が物凄いのと、自警団の青年などが水の警戒に駈け歩いているので、廻り道をして芦屋川の堤防の上へ出、水量の増した川の様子を見て戻って来て、業平橋の辺は大変でございます、水が恐ろしい勢でもうすぐ橋に着きそうに流れておりますなどと語っていたが、それでもまだそんな大事に至ろうとは予想すべくもなかった。…」。

小説 細雪より引用

この細雪の大雨は1928年に起きた「阪神大水害」のことではないか?と言われている様です。

業平橋を越えたあたりから、両岸に芦屋市の市木である松の木が並びはじめます。「芦屋川松風通り」と名付けられたこの通り沿いはとても落ち着いた雰囲気です。さらに南下して、43号線を越えると、松林が続く芦屋公園に出てやがて海が見えてきます。

芦屋川は山から海へまでの傾斜が比較的一定で、散歩している間の30分ぐらいで山の景色から海の景色へと変わる面白いロケーションです。それでは芦屋公園からほど近い谷崎潤一郎記念館へと参りましょう。

谷崎潤一郎記念館

こちらの記念館は谷崎文学に親しみ、次世代へと継承してゆくことを目的として1988年にオープンした施設。館内には松子夫人や遺族から贈られたゆかりの品々を中心に、自筆原稿や書簡、愛用したすずりなどが展示されています。

再現された谷崎潤一郎の書斎

書斎を再現したコーナーからは、谷崎氏の関西での最後の住居、京都・潺湲亭(石村邸)の庭を模した日本庭園が見られます。
時より小気味よく鳴り響く「ししおどし」の音が静かな時間を演出しています。

館内では短編から長編まで何冊もの谷崎書籍が販売されていましたが、悩んだ挙句、読んでいなかった谷崎処女作の「刺青」を購入。

さて、次へ向かいます。

富田砕花旧居

記念館から宮川へ出て、再び北へ15分ほど川沿いに歩を進めると、住宅街の一角に素朴な佇まいの旧家が現れます。

富田砕花旧居(とみたさいかきゅうきょ)は谷崎潤一郎が倚松庵を住居とする前の、昭和9年から11年の間、松子夫人と共に暮らした屋敷であり、小説「猫と庄造と二人のをんな」の舞台とされています。

その後、詩人の富田砕花が移り住み、昭和59年に93歳で亡くなるまで終の棲家としました。

富田砕花 肖像

旧居は明治・大正期から屋敷があったと伝えられていますが、屋敷の大半は第二次世界大戦の戦災により焼失。現在は、唯一戦火を免れて残った旧書斎と、戦後建設された母屋が庭園のある敷地のなかに建っています。庭園にある大きな松の木も戦火を逃れて、古くから残るものだそうです。

旧書斎

この戦災を免れた旧書斎で、谷崎潤一郎が「源氏物語の現代語訳」「半そで物語」などを執筆したそうです。 書斎と言っても6畳ほどの小さな屋根裏部屋で、特別に見学させて頂きましたが、物置部屋と化していて、残念ながら画にならなかったので写真には収めませんでした(笑)

谷崎潤一郎記念館の書斎の様に当時を再現したら、雰囲気あってイイのになーなんて思いながら、母屋と庭園を見学することに。

富田砕花について

富田砕花は山と旅が好きな芦屋市ゆかりの詩人で、兵庫県内の50程にものぼる学校校歌や市町歌を手がけ、兵庫県文化の父とも称されたお方。芦屋市は「富田砕花賞」を設けて詩人の意思を継承しています。旧居の庭園には富田砕花が兵庫県を詠んだ詩の石碑が残されています。

それでは10分ほど歩いて最後の場所へと参ります。

芦屋市立図書館 打出分室

文学ロード散歩の締めくくりは、それっぽく図書館へとやって来ました。と、言っても図書館には見えないですよねー。近代建築好きの僕にとっては、めっちゃたまらぬ外観です。

別名、旧松山家住宅松濤館(きゅうまつやまけじゅうたくしょうとうかん)とも言い、もともと明治期に大阪で逸身銀行として建てられたものが、芦屋市打出に移設され個人宅として使われたのち、現在は芦屋市の所有となり図書館として使われています。

国の登録有形文化財とされているこの図書館。少年時代を芦屋市で過ごした村上春樹がここによく通ったそうです。

まとめ

大大阪(だいおおさか)と呼ばれた昭和初期の商都大阪と共に発展した阪神間には、日本の近代文学に足跡を残した作家たちが多く住みました。どこか街並みが詩的で、情緒を感じるのはそのせいでしょうか?

この記事をまとめてみて、阪神間、とりわけ芦屋にはやはり松の木が多いんだなーって、つくづく思いました。 松子夫人を愛した、谷崎潤一郎が芦屋を好きになったのも必然なのかも知れませんね(笑)

では、また!

今回行った場所

倚松庵(開館日)土・日曜日(入館料)無料

谷崎潤一郎記念館  公式ホームページ
(休館日)月曜日・年末年始 (観覧料)一般300円

富田砕花旧居 (開館日)水・日曜日(入館料)無料

芦屋市立図書館打出分室

-神戸・阪神間・兵庫
-,

Copyright© SMILE LOG , 2018 All Rights Reserved.