

文の京として知られる、学びの地、本郷。
東大正門前の賑わいから一歩路地へ入ると、都心の喧騒から離れた下町の香りと静けさが溶け合っています。歩を進めるごとに、古き良き時代の街の記憶がそっと語りかけてくるような、どこか懐かしい時間が流れています。
東大本郷キャンパスから少し離れた路地裏に、一見するとキリスト教の礼拝堂のような、しかしその実は深い仏教精神を秘めた、これまでに見たこともない摩訶不思議な建築がひっそりと佇んでいます。
大正期から昭和初期にかけて活躍した、関西近代建築の父・武田五一が東京に遺した数少ない建築。今回は、その 求道会館 を訪ねました。
祈りの形を求めて:近角常観の情熱と武田五一の感性

この建築の物語は、明治から大正、昭和にかけて、混迷の時代を切り拓こうとした浄土真宗大谷派の僧侶・近角常観 という一人の人物から始まります。
滋賀の寺に生まれた常観は、帝国大学(現・東京大学)で哲学を修めた後、本山の命を受け欧州へ留学しました。そこで彼が目にしたのは、キリスト教が地域社会や青年の生活に深く根ざし、人々の孤独や悩みに寄り添う真摯な姿でした。
帰国後、常観は形式化した「葬式仏教」の在り方に疑問を抱きます。真の信仰を求める彼は、青年学生と寝食を共にしながら仏教を究める「求道学舎」を創設。やがて彼が説く「日曜講話」は大きな反響を呼び、あふれんばかりの聴衆を受け入れるための新たな伝道の場として、この「求道会館」が計画されました。
設計を託されたのは、常観と同時期に渡欧し、西欧の先進的な文化を肌で感じていた建築家・武田五一です。常観が武田に突きつけた注文は、実に謎めいたものでした。
「教会のようであっても困るが、しかしながら従来の寺院のようであっても困る、また普通の煉瓦造りでも困る」
この哲学的な問いに対し、武田は12年という長い歳月をかけて構想を練り上げました。そして1915年(大正4年)、ついにこの唯一無二の空間を完成させたのです。
西欧の「器」に宿る、東洋の精神

建物の正面に立つと、まず目を引くのは4本の太い円柱が並ぶポーチと、5連のアーチ窓です。屋根には石綿スレートの菱葺が施され、意匠の端々には武田五一が留学先から持ち帰った「セセッション(分離派)」の直線的な美学が息づいています。屋根上部に見られる意匠は、日本の伝統建築にも通じる仏教的な幸福の象徴であり、武田の歴史への造詣を感じさせます。
扉を開けて大会堂へ足を踏み入れると、その空気は一変します。高い天井が広がる空間の中央に鎮座するのは、ヒノキの白木で設えられた純和風の「六角堂」です。西洋的なバジリカ様式の空間の中に、親鸞聖人が夢告を受けた場所として知られる京都の頂法寺(六角堂)を模した厨子を配するという、他に類を見ない独創的な構成となっています。

武田は、単に西洋と東洋を混ぜ合わせたのではありません。2階席を支える細い鉄柱には、当時普及し始めていたガス管が転用されています。限られた予算の中で、鉄の強度を活かしつつ視界を遮らない軽やかな空間を作る、五一流の「素材の魔術師」としての手腕が光ります。
2階の正面に配された5連のアーチ窓。そこを彩るステンドグラスは、単なる装飾を超えた宗教的な物語をつづっているかのようです。

描かれているのは、お釈迦様が悟りを開いたとされる大きな菩提樹。その枝葉の影には、よく見ると4羽の小鳥たちが羽を休めています。これは、お釈迦様の説法を聞くために鳥たちが集まったという仏教の教えに基づいた意匠です。このステンドグラスから差し込む柔らかな光は、大会堂を温かく照らし出します。
さらに、この空間設計には深い意図が隠されています。ステンドグラスに描かれた「お釈迦様の悟り(菩提樹)」と、正面の「親鸞聖人の回心(六角堂)」を結ぶ直線の延長線上に、常観が立つ説教台が配置されているのです。この配置によって、仏教の歴史と常観の信仰が一本の光の線で繋がるというドラマチックな空間演出がなされています。
六角堂の背後の壁面には、仏の後光(阿弥陀如来の慈悲の光)を表現した大きなアーチ状の石膏レリーフ「光背」が配されています。
このレリーフは、18枚の石膏板を繋ぎ合わせて作られたもので、天平式彫刻による唐草模様が彫り込まれています。この唐草模様は、日本の伝統的な意匠であると同時に、当時武田が傾倒していたアール・ヌーヴォーの曲線美とも共鳴するデザインのようにも見受けられます。
本来、光背には金粉を用いるのが通例ですが、限られた予算の中、武田はあえて塗料や色粉に工夫を施しました。レリーフの内側には薄いピンク、外側には薄いクリーム色の漆喰が塗られており、漆喰にわずかな色粉を混ぜることで生まれた絶妙な中間色が、金箔の放つ煌びやかさとは対照的な、柔らかく沈み込むような質感を与えています。訪れる人々を優しく包み込み、張り詰めた心を静かに解きほぐしていく「阿弥陀如来の慈悲の暖かさ」を見事に視覚化しているのです。
伊東忠太の「進化論」と武田五一の「セセッション」
日本の宗教建築史の視点で見れば、この求道会館は、黎明期の近代建築を牽引した「伊東忠太と武田五一」、この二人の対話とも読み解けます。求道会館が竣工する3年前の1912年(明治45年)、伊東忠太は、京都に建つ「真宗信徒生命保険(現・本願寺伝道院)」において、イスラム風の意匠を用いた仏教建築の近代化を試みていました。

真宗信徒生命保険(本願寺伝道院)
この建物で伊東が目指したのは、単なる西洋建築の模倣ではなく、アジア諸国の意匠を融合させることで日本建築を進化させるという、伊東独自の「建築進化論」の実装でした。赤レンガ造りの壁面にイスラム風のドームを冠し、窓まわりには東洋的な装飾を施したその姿は、それまでの「伝統的な木造寺院」という固定観念を根底から覆す「仏教建築の脱・木造化」の先駆的な実験でした。
この「伝統様式の解体」という伊東の挑戦は、1934年(昭和9年)に完成する東京・築地の「築地本願寺」において、より壮大なスケールで結実します。築地本願寺では、レンガ造りからさらに踏み込み、古代インドの石窟寺院を彷彿とさせる重厚な石造風の量感が追求されました。

築地本願寺
建物の随所には、伊東忠太の代名詞とも言える「妖怪」や「幻獣」といった摩訶不思議な動物たちが、具象的な彫刻として息づいています。これは、建築に物語性を与え、アジアのルーツを自由に引用することで、新たな仏教空間を創出しようとした伊東の執念の現れとも言われています。
築地本願寺の意匠
伊東と武田は、ともに帝国大学(現・東京大学)出身の先輩後輩であり、「台湾神社」の共同設計も手がけた深い縁があります。伊東が妖怪や幻獣といった具象的な物語性を用いて「重厚でエキゾチックな世界」を描いたのに対し、武田はタイルやセセッション様式を用い、より「軽やかでモダンな美」を追求しました。求道会館は、伊東忠太が切り拓いた「伝統様式の解体と再構築」という道の上で、武田五一がその独自の美学をもって提示した一つの完成形と言えるでしょう。
求道会館の2階で見つけたマントルピースの造形を眺めていると、ふと築地本願寺の片隅にある意匠を思い出した。

求道会館のマントルピース

築地本願寺 ディティールの意匠
直線的なラインが強調されたそのフォルムは、19世紀末の欧州で旧来の様式から脱却を目指したデザイン運動「セセッション」の美学を、映し出しているようにも思えます。武田五一と伊東忠太。手法こそ違えど、新しい時代の風を建築に吹き込もうとした二人の巨匠たち。そのアプローチの違いは、日本の近代建築が「伝統」をいかに解釈し、未来へ繋げようとしたかを示す重要な軌跡のようにも感じました。
時を超えて蘇る「求道の場」 荒廃からの再生

戦後、求道会館は一時期、後継者が途絶えたことで約50年もの間、その門を閉ざしていました。建物は荒廃し、近隣では「お化け屋敷」と噂されるほどでしたが、平成6年(1994年)に東京都有形文化財の指定を受けたことを機に、大規模な修復工事が始まります。
修復にあたっては、閉鎖されていたがゆえに残されていたオリジナルの建材や写真資料が大きな助けとなりました。崩れ落ちていた螺旋階段や、傷んだステンドグラス、さらには通常は非公開となっている応接室の暖炉に至るまで、武田五一が込めた意匠の数々が、建築家である孫・真一氏らの尽力により忠実に復元されました。現在は毎月第4土曜日に一般公開されており、この静かな空間に身を置くことができます。
あとがき
かつて「お化け屋敷」と呼ばれたほどに荒廃していた建物が、修復を経てこれほど美しく蘇ったのは、そこに武田五一や近角常観が込めた並々ならぬ情熱があったからなのでしょう。
一見、教会のような外観の中に仏堂を抱く不思議な空間は、洗練された趣を持ちつつも、古刹にも似た、どこか包み込んでくれるような温かさがありました。
100年以上前、ここで説法に耳を傾けたであろう学生たちの熱気に思いを馳せてみると、栄枯盛衰が激しい東京で、この場所が今も大切に守られていることが、なんだか嬉しくなります。月一度の公開日にふらりと足を運んでみると、静かで優しい空気感に、きっと心も少し軽くなるのではないでしょうか。
今回行った場所
求道会館 公式ホームページ