

小笠原伯爵邸:客室
新宿の喧騒から少し外れた都営大江戸線・若松河田の駅前に降り立つと、そこには都心の真ん中とは思えないほどの穏やかな空気が流れています。
大通りを背に少し歩くと、樹木の豊かな緑の中に、ひときわ異彩を放つクリーム色の美しい洋館が姿を現します。かつて昭和初期に華やかな社交の場として築かれた「小笠原伯爵邸(旧小笠原長幹伯爵邸)」です。
現在、スパニッシュ・レストランとして有名なこの邸宅は、単なる保存建築としての存在だけではなく、失われかけた昭和モダン芸術を救い出そうとした人々の情熱が今なお深く息づく場所とも言えるでしょう。国内屈指のスパニッシュ名建築の記憶を辿ってみましょう。
小笠原家下屋敷の地に建つ、施主と建築家の「深い信頼」

この邸宅が建つ新宿区河田町は、江戸時代、旧小倉藩主であった小笠原家の下屋敷があった由緒ある土地柄です。明治期に下屋敷の多くが姿を消し、周辺の宅地化や文士の移住が進む中、小笠原家は関東大震災による旧建物の崩壊を機に、災害にも強い堅牢な鉄筋コンクリート造の邸宅をこの地に再建することを決めました。それが1927年(昭和2年)に竣工した現在の小笠原伯爵邸です。
設計を手がけたのは、戦前最大にして最高峰の設計事務所と謳われた「曾禰中條建築事務所」でした。共同経営者の一人である曾禰達蔵は、かつて幕末期に小笠原長行に仕えた唐津藩の武士という経歴を持っていました。曾禰にとって、施主である小笠原長幹伯爵は、かつての「お殿様」にあたる存在だったのです。
さらに、パートナーの中條精一郎も、長幹伯爵と同じケンブリッジ大学の留学経験を持つ先輩にあたりました。単なる依頼主と建築家という枠を超えた、深い信頼関係と歴史の結びつきが、この邸宅を昭和の名建築へと昇華させたのでした。
「掻き落とし仕上げ」と呼ばれる、ざらざらとした手触りを感じさせる温かみのあるクリーム色の外壁。そこに、鮮やかなエメラルドグリーンのスペイン瓦が美しい色彩のコントラストを描いています。建物の開口部は小さく抑えられ、窓には繊細で気品あふれる鉄格子(グリル)が施されています。
玄関の正面には頭上に大きく張り出した鉄製の庇(キャノピー)を設け、ここには、あふれる生命力を象徴する「葡萄棚」がデザインされています。重厚な石組みの正面玄関には、大胆な唐草渦巻文様が刻まれ、物語の始まりを予感させます。
芝生の庭に向かって半円形に張り出しているのは、この館の最大の見せ場であるシガールームの外壁です。このカラフルで愛らしい陶板タイルは、「釉薬の天才」と称された小森忍の作品です。足元には緑の茂みに隠れるようにして、曾禰中條建築事務所の「定礎銘板」が埋め込まれています。
「1926 A.D.」と刻まれたこのプレートには、当時の建築に携わった人々の誇りと、曾禰達蔵の並々ならぬ思い入れが込められています。通常、自らの設計作品に名前を刻むことをしなかった曾禰が、このお殿様の邸宅には特別な意を注いだことが、この小さな銘板からもひしひしと伝わってきます。
食堂:グランドサロンに佇む、往時の家具「メロン・レッグ」

玄関を通り抜け、邸内へと歩みを進めます。小笠原伯爵邸の内部は、スペインの伝統的な邸宅にならい、中庭(パティオ)を囲むロの字型の回廊構造で作られています。1階の廊下を進むと、最初に左手に現れるのが「グランドサロン」、かつての正餐用食堂です。
鴨居高まで張られた落ち着いた色調の木製壁パネルと、天井を走る力強い木製の梁が、ヨーロッパの由緒ある館を彷彿とさせる、重厚でフォーマルな雰囲気を醸し出しています。この広い部屋の中央に静かに座しているのが、この館で唯一、竣工当時から遺されている家具、大木製テーブルです。
この大テーブルの脚部には、英国のチューダー・エリザベス朝様式に見られる、球根のように大きく膨らんだ彫刻が施されています。その独特な形状がメロンに似ていることから「メロン・レッグ」と呼ばれています。かつて伯爵夫妻と5男6女という大家族がこのテーブルを囲み、賑やかで温かな食事の時間を過ごしていた往時の光景が目に浮かぶようです。
客室:小川三知が残した「可憐なステンドグラス」

グランドサロンを抜けると、どこか優しく可憐な空気に満ちた「サロン(旧客室)」へと繋がります。
ダークで重厚だった食堂とは対照的に、この客室は女性的で軽やか、そして洗練されたプライベート空間といった佇まいです。窓に目を向けると、そこには日本初のステンドグラス作家・小川三知の手による、小花を吹き寄せたような可憐なステンドグラスが、当時のままの可憐な姿で収められています。
ヨーロッパの聖堂で見られるような、光を遮り物語を伝える荘厳なステンドグラスとは異なり、小川三知の作品は、半透明のガラスを活かして日本の暮らしに優しく光を溶け込ませるためのデザインです。太陽の傾きや天候によって刻一刻と表情を変える光のプリズムは、いつまで眺めていても飽きることがありません。
シガールーム:オリエンタルの薫りが漂う空間

サロンのさらに奥、庭に向かって半円形に張り出した部分にあたるのが、この邸宅における「最大の見せ場」であるシガールーム(旧喫煙室)です。ドーム天井に描かれた鮮やかなアラベスク模様や、大理石が幾何学模様を描く床など、どこかエキゾチックで濃密な雰囲気が漂います。
大正から昭和初期にかけて、タバコや葉巻がイスラム圏からヨーロッパへと伝わった歴史的背景から、当時の西洋館において喫煙室をイスラム風(アルハンブラ様式)に装飾することは最先端のトレンドであり、紳士の嗜みでもありました。
天井を彩る鮮やかな極彩色のアラベスク(幾何学・植物文様)は、竣工当時のモノクロ写真を基に、二科会の画家によって丁寧に復元されたものです。壁面の細やかな漆喰彫刻、磨き上げられた大理石の柱、そして足元に広がるモザイクタイル。かつてここで伯爵やゲストたちが世界の情勢を語り合いながら紫煙をくゆらせた、贅沢極まりない空間の情景が今も鮮やかに色づいています。
2階:時を忘れる個室の意匠

1階の贅を尽くした社交空間を堪能した後は、2階へと続くプライベートな空間へと進みましょう。1階と2階を繋ぐ階段室は、一歩引いた奥ゆかしい美しさと静寂を湛えています。
手すりを支える一本一本にねじりが加えられた精緻な木工装飾。踊り場のアーチ窓に嵌め込まれた格子からは、中庭(パティオ)の様子が見え隠れし、豊かな自然光を階段室へと柔らかく導いています。
2階へと上がると、かつては寝室や秘書室、女中室などとして使われていたプライベートな部屋が並びます。現在は婚礼の控室や個室として大切に維持されており、各部屋には当時の女性たちの暮らしを想像させる白くて可憐な猫脚の鏡台テーブルがそっと置かれ、クラシカルな気品を添えています。
あとがき
小笠原伯爵邸の大きな魅力は、この名建築が醸し出す特別な空間を、カフェやバーとして身近に体感できる点にあります。1階にある「OGA BAR by 小笠原伯爵邸」では、かつてのキッチンスペースやベランダの面影を残す、モダンで落ち着いた空間が広がっています。
カフェ利用者には、平日の特定時間帯(15時30分〜17時頃)に邸内や庭園の見学が開放されています。見学時には館内の写真撮影も可能です。(貸切やイベント時は見学できない場合があるため、公式ホームページから事前のご確認をおすすめします)。
記念日のディナーで訪れるのはもちろんのこと、平日の午後にふらりと足を伸ばし、お茶を傾けながらレンズ越しに建物の細部を愛でる――そんな贅沢な時の過ごし方が似合う建築です。
小笠原伯爵邸 公式ホームページ