武者小路実篤の足跡を巡る|仙川の旧実篤邸と我孫子邸跡が紡ぐ「理想の暮らし」

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S.L
聖地巡礼


旧実篤邸:応接室

「仲よきことは美くしき哉」。

私が幼少の頃、生まれ育った実家の一角に掛けられていた額に記された言葉です。温かみのある筆づかいの傍らに、添えられた南瓜の絵。時計の針の音だけが響く穏やかな夕刻、幼心にその額をぼんやりと見上げていた光景は、遠い記憶となった今となっても不思議と色を失いません。

これは、明治から昭和にかけて、文学や美術の領域で独自の足跡を残した文豪、武者小路実篤むしゃこうじさねあつ の言葉で、人と人が争わず、心を通わせることの尊さ。人間をこよなく愛し、理想を追い求め続けた実篤の優しさが滲むメッセージのひとつです。

武者小路実篤という多才な作家はその生涯において、どのような風景を見つめ、暮らしを営んだのでしょうか。今回は、実篤が晩年に穏やかに過ごした、東京都調布市の「旧実篤邸」と、若き日に志賀直哉らと共に白樺派として情熱を燃やした千葉県我孫子あびこの「旧武者小路実篤邸跡」を巡り、実篤が見たであろう情景とともに、彼が歩んだ日常の面影をたどりたいと思います。

旧実篤邸(仙川の家)

武者小路実篤の生涯と仙川「旧実篤邸」への移住


旧実篤邸:仕事部屋

武者小路実篤は、明治18年に東京府麹町区(現在の東京都千代田区一番町)の華族の家に生まれました。明治から昭和にかけて、日本近代文学における人道主義や理想主義の先駆者として文壇を牽引し、小説家、詩人、劇作家、そして画家として多才な足跡を残し、昭和51年に90歳でその生涯を閉じました。

調布・仙川せんがわの邸宅である『旧実篤邸』は、昭和30年、実篤が70歳の時に三鷹から移住し、没するまでの約20年間を過ごした終の棲家です。実篤はこの家を、最寄りの京王線・仙川駅にちなみ「仙川の家」と呼びました。

移住の直接的な契機となったのは、親友である志賀直哉に「年をとったら水のあるところに住むのが子供の頃からの夢だった」と話したところ「もういい年じゃないか」と言われ、これを機に実篤は本格的な土地探しを始めたというエピソードが残されています。

それまでに暮らした三鷹市牟礼の家では娘や孫らを含む15人の大家族と同居しており、晩年は「静かに仕事ができる環境」を求めていました。土地選びにあたって実篤が強く望んだのは、「湧水があり、池がある場所」であること。安子夫人とともに、三鷹や深大寺周辺など水辺のある土地を探し歩いた末に、この仙川の美しい湧水地に出会いました。


実篤公園

旧実篤邸が佇む敷地(現在の実篤公園)は、約5,000平方メートルもの広さを誇ります。実篤がこの地を選ぶ決め手となった湧水は、今も変わらず滾々と湧き出ており、敷地内の2つの池を満たしています。実篤は、午前中に原稿を書き、午後は絵を描き、合間に庭を散策したり鯉に餌をやりながら、自然と触れ合う暮らしを楽しみました。

池の周りには、実篤が好んで絵のモチーフにした植物をはじめ、多様な木々や草花が自然のままの姿で残されています。春には桜や新緑、夏には池を渡る涼やかな風、秋には色鮮やかな紅葉、そして冬の静寂と、ここには実篤が日々見つめたであろう武蔵野の美しい四季の移ろいが、当時の空気感をそのままに今も息づいています。

山口芳春による近代和風建築


旧実篤邸:テラス

実篤の日常を支えた旧実篤邸は、建築家・山口芳春の設計による木造平屋建て(テラス部分のみ鉄筋コンクリート造)のモダンな近代和風住宅です。昭和30年竣工の、華美な装飾を排した実篤らしいこの建物は、戦後の和風モダニズムの好例として評価され、国の登録有形文化財に登録されています。

外観はモルタル大壁仕上げで重厚な「箱」のような佇まいを見せる一方、内部は崖地の高低差を巧みに利用したスキップフロア構造を採用しており、「仕事(公)」と「生活(私)」を機能的に分けているのが特徴的です。

この家を建てるにあたって、実篤の唯一の希望は「明るい家」にすることであり、南側に向けて大きく開かれた窓からは燦々と光が差し込み、庭の自然を見渡すことができます。

さまざまな仲間と語り合った「応接室」と創作の「仕事部屋」


応接室

応接室の広さは約12畳あり、玄関から入ってすぐの「公(仕事・接客)」のエリアに位置しています。応接室の隣には実篤の執筆の場であり書画をかく場でもあった仕事部屋があり、仕切りの襖を開ければ直接行き来できるようになっています。

室内には、西洋から東洋まで実篤が愛した幅広い美術書を収めた書棚が設置されています。壁には自作の油彩画や、岸田劉生をはじめとする白樺派の仲間たちの作品、愛蔵の美術品が所狭しと並べられていました。


応接室

実篤の「明るい家」という願いを反映し、ロビーの屋根に設けられた天窓からの柔らかな自然光が、北側に位置する玄関周りを穏やかに照らし、応接室は南側一面をガラス窓にする事によって、光をより多く取り込む設計とされています。ここには編集者、画商、友人、そして多くのファンが毎日のように訪れました。実篤はここを訪れた人々と語り合うことを楽しみ、午後の時間の多くを来客との交流に充てていたといいます。


応接室

応接室は単に人と会う場にとどまらず、実篤が油絵を描いた場所でもありました。晩年は、ロビーにまでキャンバスを広げて自身の芸術世界を深め、この空間から多くの作品を生み出しました。

応接室・ロビーの床に残された墨の跡

この空間は、訪問者を受け入れる十分な社交機能を備えつつ(和して)、段差によって、最愛の妻との穏やかな日常生活を固く守る(同ぜず)側面も持ち合わせ、実篤が好んだ言葉「和して同ぜず」を具現化しているようです。


仕事部屋

旧実篤邸において、最も重要かつ象徴的な空間が仕事部屋です。10畳のこの部屋には、彼の創作への熱意と生活哲学が凝縮されています。

仕事部屋には、実篤が愛用したすずりや筆、座卓、座布団、赤穂緞通だんつうが当時の配置のまま展示されており、文豪の日常の佇まいを肌で感じることができます。

仕事部屋も応接室と同様に南側一面をガラス窓とし、安定した自然光が入り込む設えとなっています。これは、一日を通して光の変動を最小限に抑え、執筆や絵の制作に集中するための機能的な設計であり、山口芳春による新興数寄屋建築の粋といえる意匠です。


仕事部屋

隣接する応接室とは仕切りの襖で繋がっており、必要に応じて開放することで、編集者や画商といった来客との交流空間と一体化させて使用することも可能でした。仕事部屋には用途に応じて使い分けられた二つの机があり、現在も当時の面影を留めています。

実篤は、電灯の明かりよりも太陽の光の下で仕事をすることを好み、窓に面して置かれた小さな「経机きょうづくえ」で、万年筆を握り原稿用紙に執筆していました。自伝小説『一人の男』もこの机から生まれました。また、部屋の中央付近には「民藝運動」の流れをくむ鳥取民藝家具で設えられた、書画制作のための少し高めの「座り机」が置かれており、カボチャやジャガイモ、花といった身近なモチーフを独特の筆致で描きました。

仕事部屋

当時の仕事部屋は、執筆中の原稿、描きかけの書画、絵の具、さらには絵のモチーフとなる本物の野菜、陶磁器、人形などが畳の上に所狭しと並べられており、室内は「足の踏み場もないような状態」でした。創作に対する熱意は、没する半年ほど前に硯に穴があいてしまったほどであったというエピソードからも伺い知ることができます。

妻への思いやりが宿る「客室」


客室

旧実篤邸の西側に位置する客室は、親しい来客を迎え入れるための端正な空間です。応接室が編集者やファンなどの多種多様な来客を迎え入れる場であったのに対し、この和室は、より気心の知れた親しい客をもてなす場所として使い分けられていました。実篤が創作の場として熱意を注いだ仕事部屋や、社交の場であった応接室とは対照的に、静かな和の趣と家族への思いやりが随所に表現されています。

客室は、ロビーから一段上がった高い位置に配置されており、「仕事・接客の空間(仕事部屋・応接室)」とは心理的・物理的に切り離された、より親密な空間と捉えることができます。


客室

客室には約1.5畳分もの幅を確保したゆとりある床の間が設けられています。ここには、実篤が愛蔵していた東洋の書画の軸などを掛け替えながら折々に飾られていました。部屋には実篤が愛した美術品や自作の書画が並び、訪れる人々は庭園の緑を感じながら、実篤の美意識に包まれた贅沢な時間を過ごしたことでしょう。

客室の意匠として象徴的なのが、壁に配された丸窓です。この窓には、萩の枝の格子に「あけびのツル」を巻いた意匠が施されており、新興数寄屋建築としての繊細な美しさを演出しています。


客室

実篤自身は茶道を嗜みませんでしたが、妻・安子が茶の湯に親しんでいたことから、この客室には炉が切られ、隣の「次の間」には水屋が設えられています。実篤が70歳にしてこの家を建てた際、自身の仕事のことだけでなく、妻がお手前を楽しめるよう配慮して設計されました。「和して同ぜず」の精神を家族関係においても実践し、互いの個性を尊重し合う空間づくりを目指した証とも言えます。

現在、旧実篤邸で見学できるこの客間には、あけびのツルが巻かれた丸窓の向こう側に武蔵野の緑が映り込み、実篤が求めた「明るい家」と「水辺の静謐さ」が今も保たれています。

居室と台所から伺える「生活者」実篤のプライベート空間


居室

邸宅の奥、ロビーの段差を上がった先に広がるのは、実篤が妻・安子とともに穏やかな私生活を過ごしたプライベートな空間である居室です。実篤は仕事以外の大半をこの部屋で過ごしたといいます。

居室の南側に設けられたサンルームは、当時としては珍しい設備であり、この邸宅の設計上の大きな特徴です。天井には自然光を採り入れる天窓が設置され、光量を調節するための「引き込み障子」も備えられています。


居室・サンルーム

ここでロッキングチェアに揺られながら、池で泳ぐ鯉を眺めたり、四季の移ろいを楽しむ実篤の姿が浮かびます。レトロなテレビや、温かみのある布がかけられた椅子からは、往時の飾らない、ゆったりとした家族の時間が伝わってきます。

居室の隣には、機能的でありながらも質素な台所が配置されています。三鷹の家での大家族による賑やかな生活とは対照的に、ここでは夫婦二人の静かな食卓が囲まれていました。


台所

流し台は、東側の窓から入る柔らかな光に照らされています。窓には採光とプライバシーを兼ね備えた波板ガラスや格子が用いられ、清潔感のある空間が保たれていました。

壁一面に造り付けられた木製の戸棚には、日々の生活で使われていた急須や薬缶、食器類が当時のままの空気感で収められています。ここでは、実篤の生活の全てを支えた安子夫人の想いが感じられます。

このように、邸宅の南側に「応接室・仕事部屋・客室・居室」といった、それぞれ異なる意図を持った部屋を配し、それらを「光が溢れる空間」とする設計によって、実篤の充実した活動を支える理想の住まいが実現されたのです。

この仙川の家で安子夫人と過ごした光溢れる日々は、実篤にとって単なる晩年の安息ではなく、生涯をかけて追い求めた「自然と調和した理想の暮らし」の結実であったと言えるでしょう。

しかし、実篤が70歳にして直感的に選び取ったこの風景や豊かな湧水への深い愛着は、決して唐突に生まれたものではありませんでした。その原風景を辿れば、30代の若き日に志賀直哉ら白樺派の仲間とともに、情熱的な芸術活動に身を投じた「ある土地」の記憶へと行き当たります。

仙川の地で彼が求めた静けさは、かつて手賀沼のほとりで夢見た理想郷の面影を宿していたのかもしれません。それでは、実篤の思想の原点であり、白樺派の聖地とも呼ばれた場所――千葉県我孫子の邸宅跡へと、時を遡ってみることにしましょう。

旧武者小路実篤邸跡(我孫子の家)

白樺派の聖地・我孫子コロニーと志賀直哉との友情


旧武者小路実篤邸跡

かつて「北の鎌倉」とも称された千葉県我孫子は、大正から昭和初期にかけて多くの知識人や芸術家が移り住んだ風光明媚な土地です。

明治43年に雑誌『白樺』を創刊した若き志賀直哉や柳宗悦らが、大正3年から4年にかけてこの地に居を構え、そこへ大正5年12月、盟友である志賀の強い勧めに引かれるようにして武者小路実篤がやってきました。この時、志賀直哉33歳、武者小路実篤31歳と彼等にとって理想の具現化に向けて情熱を燃やした若き日でした。


旧武者小路実篤邸跡

二人の深い絆は、学習院時代にまで遡ります。実篤より二歳年上だった志賀が落第したことで、中等学科六年時に偶然にも同級生となったことが出会いの始まりでした。この学校での邂逅かいこうが、生涯の友情と白樺派の活動の源泉となったのです。

実篤がこの地を選んだ背景には、当時肺病(結核)の疑いがあり、手賀沼周辺の空気の良さを求めての転地療養という側面もありました。英国人陶芸家のバーナード・リーチも、柳の邸内に窯を築いて加わり、ここには「我孫子コロニー」と呼ばれる、生活と芸術が未分化に融合した熱気あふれる芸術的磁場が形成されたのです。

近代数寄屋建築の住まい


旧武者小路実篤邸跡

手賀沼を見下ろす崖線の上に位置する「旧武者小路実篤邸跡」を訪れると、今も当時の文豪たちが愛した静謐な空気が漂っています。実篤がこの地で過ごしたのは、大正7年9月に理想社会の具現化を目指す「新しき村」建設のために宮崎県へと旅立つまでの約2年間でした。

現在の建物は、実篤が住んでいた当時のものではありません。彼が暮らした家は当時の妻・房子が図面を引き、予算に合わせて建坪を削った極めて簡素な平屋建てでした。現存する主屋は昭和28年頃に再建されたものです。しかし、この再建建築は実篤が好んだ平屋をよく模しており、戦後の新興数寄屋の旗手・吉田五十八の作風を彷彿とさせる、昭和中期の「近代数寄屋建築」として極めて高い完成度を誇っています。


旧武者小路実篤邸跡

邸内に一歩足を踏み入れると、なぐりの柱や深い軒下、そして端正な格子窓など、伝統的な数寄屋の美しさに現代的な感性が融合した空間が広がります。趣のある照明や、緑を美しく切り取る長い廊下、そして東側のモダンなガラス大開口戸は、ここが優れた建築作品であることを物語っています。

和室の襖に描かれた山々の意匠や、重厚な床の間は、訪れる者の心を静かに落ち着かせます。大きく開かれた障子の向こう側には、コナラやクヌギが茂る豊かな庭園が広がり、往時、松林越しに金色の夕日に輝く手賀沼や富士山を眺めていた実篤の視線を追体験させてくれるようです。

我孫子での暮らしは、創作活動においても極めて活発でした。実篤はこの地で「我孫子刊行会」を設立し、『我孫子より』などの書籍を世に送り出しました。


旧武者小路実篤邸跡

実篤は朝食を済ませると毎日のように柳や志賀の家を訪れ、時には小舟で湖上を渡って互いの家を頻繁に行き来したといいます。後に仙川の地で再び志賀に背中を押されて、水のある土地を求めたエピソードとも重なり、二人の不変の友情を象徴しているようです。


旧武者小路実篤邸跡

この我孫子の豊かな湧水、そして学生時代から続く志賀直哉との友情の記憶があったからこそ、実篤は晩年、再び「湧水と崖線のある地」である仙川を終の棲家に選んだのでしょう。我孫子に刻まれた若き日の情熱は、時を経て仙川の「明るい家」へと静かに継承され、彼の理想とした「生命の完全な生長」を支え続けたとも言えるのではないでしょうか。

あとがき

実篤の足跡を辿る旅は、彼が九十年の生涯をかけて描き続けた理想の円環を閉じるような時間でした。

若き日に手賀沼のほとりで白樺派の仲間と燃やした情熱は、時を経て、仙川の湧水と雑木林に囲まれた「明るい家」へと回帰してゆく。かつての「我孫子コロニー」で見つめた夕日や崖線の風景は、晩年の実篤が辿り着いた暮らしの中に、もうひとつの理想郷として息づいていたのかもしれません。

八十八歳になった実篤が、慈しむように筆を執った「仲よきことは美くしき哉」という言葉。

かつての私が額縁を通して見つめていたその言葉は、二つの住まいを巡った今、より深い温かさをもって響きます。時代が変わっても、滾々と湧き出る水のように色褪せることのない実篤の優しさは、今もこれらの場所から、私たちの日常を穏やかに照らし続けている様な気がします。

※今回の取材にあたり、一般財団法人調布市武者小路実篤記念館様より特別に許可をいただき、「旧実篤邸」の内部を撮影をさせていただきました。貴重な機会を賜りましたことに、心より感謝申し上げます。

なお、今回ご紹介した二つの邸宅は、現在も限られた日程で一般公開が行われています。実篤が愛した豊かな自然と穏やかな空気感を、ぜひ現地で感じてみてください。

【ご案内・公開情報】

■ 実篤公園(東京・調布市)
・開園時間:9:00〜17:00
・休園日:月曜日(祝日の場合は直後の平日)、年末年始(12/29〜1/3)
※入園無料

■ 旧武者小路実篤邸(実篤公園内/登録有形文化財)
・内部公開日:毎週土曜日・日曜日、祝日
・公開時間:11:00〜15:00(※雨天中止)
※平日はテラスからガラス戸越しに邸内を見学できます。

■ 旧武者小路実篤邸跡(千葉県我孫子市)

・公開期間:4月〜11月(毎月 第2・第4土曜日)
・公開時間:10:00〜15:00
※入邸料無料・事前予約不要(※雨天中止)

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