三鷹「山本有三記念館」武蔵野の情緑に佇む、美しき洋館の記憶をたどる

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S.L
三鷹に佇む文豪の洋館


旧山本有三邸 階段室

三鷹の閑静な住宅街、玉川上水沿いの「風の散歩道」から一歩奥へ入ると、武蔵野の豊かな緑の中に、ひときわ異彩を放つ洋館が姿を現します。

大正から昭和にかけての激動の時代を駆け抜けた作家・山本有三の旧自邸です。現在「三鷹市山本有三記念館」として公開されている建物は、単なる保存建築という枠を超え、山本有三の美学と、彼が守り抜こうとした日本の言葉、そして子どもたちへの想いが今なお息づく場所といわれています。

武蔵野の記憶を刻む洋館の意匠

外観は複雑な屋根の重なりと、天に向かって伸びる3本の煙突が印象的な洋館。この邸宅は、1926年(大正15年)頃、貿易商であり大学教授も務めた多才な人物、清田龍之介の邸宅として建てられました。清田が事業の失敗により手放した後、著述に没頭できる静かな環境を求めていた山本有三がこの館に一目惚れし、1936年(昭和11年)に購入しました。

以来、有三がGHQの接収によりこの地を追われる1946年(昭和21年)までの約10年間、家族と共に過ごした「愛着の家」です。この館の魅力は、何といっても「ピクチャレスク(絵のような美しさ)」と評されるその外観にあります。1階は当時最先端だったスクラッチタイルと、どっしりとした大谷石の基礎で構成され、2階は漆喰の白壁に木材が映えるハーフティンバー様式、屋根は銅板瓦葺きと、多様な様式が融合されています。

三鷹といえば、同じくこの地に生きた文豪・太宰治を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。太宰の三鷹居住時期は有三と約7年間重なっていましたが、作風も生活スタイルも全く異なる二人の間に、直接の交流はほとんどなかったといいます。

太宰が愛人と共に入水自殺を遂げた玉川上水は、当時「人食い川」と呼ばれるほどの急流で、この山本邸からわずか徒歩5分ほどの距離にありました。一方は世界の様々な建築様式が美しく融合した洋館、一方はつつましい借家住まいという対比は、文学ファンにとって興味深い歴史の断片ではないでしょうか。

一階:ディテールに宿る温もり

館内に足を踏みにあると、そこには木の温もりに満ちた空間が広がります。設計者は不詳とされていますが、その卓越した意匠から、鳩山会館を手がけた岡田信一郎など、相当の実力を持つ建築家の仕事であると推測されています。

建物は木造に一部鉄筋コンクリート造を取り入れた、当時には珍しい混構造の洋風住宅で、一階の天井高は高く、間取りも広々と設計されています。

応接間は、この家で最も広く、明るい部屋です。南に面したテラス側には大きな窓があり、当時を思わせるクラシックな応接セットが置かれています。戦時中、有三はこの部屋を「ミタカ少国民文庫」として子どもたちに開放し、自身の蔵書を自由に読めるようにしました。壁にある暖炉は、煉瓦を檜垣(ひがき)模様に配した精緻なデザインで、有三が子どもたちを見守りながら執筆に励んだ、慈愛に満ちた時間が感じられます。

隣接する食堂の暖炉には、外壁と同じスクラッチタイルが使用されており、フランク・ロイド・ライトの影響を受けたモダンな幾何学模様が目を引きます。かつては応接間と食堂の二間は壁で仕切られていましたが、現在は床の寄木細工の模様が部屋ごとに切り替わっていることに、その名残を留めるのみとなっています。

そして、テラス横にある長女の部屋は、この館の中でも特に情緒的な美しさを湛えた空間です。もともとはサンルームとして設計されたため、壁一面を飾るアーチ型の窓から柔らかな光が差し込みます。漆喰の壁にはロマネスク様式の特徴である「ロンバルト帯(ロンバルディア帯)」の装飾が施され、まるで中世ヨーロッパの小聖堂のような雰囲気が漂っています。

イングルヌック:家族の絆を深める「暖かな隅」

玄関ホールの脇には、この邸宅の最も特徴的な空間の一つであるイングルヌックがあります。イングルヌックとは、スコットランド語で「暖かく居心地がいい場所」を意味し、暖炉を囲むように設けられた小さな小部屋のようなスペースのことです。

19世紀後半のイギリスで、ウィリアム・モリスらが提唱したアーツ・アンド・クラフツ運動において、家族の団らんを象徴する意匠として流行しました。山本家のイングルヌックは、天井や壁に「手斧(ちょうな)」で削ったような「はつり模様」が施された重厚な梁が露出し、中世ヨーロッパの古民家のような素朴さと温もりを感じさせます。有三もここで家族や親しい友人と、火を囲みながら穏やかな言葉を交わしたのではないでしょうか。

階段室:光と影の美しいコントラスト

一階と二階を繋ぐ階段室は、この館を象徴する白眉の場所です。木製の重厚な階段は、手すりを支える「手すり子」一本一本にねじりを加えた精緻な装飾が施されています。

天井を見上げれば、まるでゴシック様式の教会を思わせるような、梁が交差する「リヴ・ヴォールト」風の意匠が、垂直方向の広がりを強調しています。そして、踊り場には巨大なステンドグラスが嵌め込まれており、そこから差し込む幾何学的な光の紋様が、階段室全体を神秘的な色彩で彩ります。この建物を設計した建築家が光の演出にどれほど情熱を注いだかが、この一角に凝縮されているかのように感じられます。

二階:和洋の調和、数寄屋風書斎の矜持

二階へと上がると、そこには一階とは異なる光景が広がります。洋館の内部でありながら、有三が最も心血を注いだのは、自身の書斎として設えた和室(和書斎)でした。当初は洋間でしたが、有三のこだわりにより、上質な数寄屋造りへと改変されています。

床柱には自然木が使され、床の間の横にある小襖には、有三の戯曲『坂崎出羽守』で主演を務めた六代目尾上菊五郎の衣装が用いられるなど、文豪ならではの粋な趣向が凝らされています。また、有三自らが見つけてきたという「卍(まんじ)型」の本棚も置かれています。格子状の窓の内側には障子が入り、洋館の外観を損なうことなく、室内には柔らかな和の光が満ちるよう計算されています。

この書斎が、不朽の名作『路傍の石』が生み出された聖域です。有三は、ここで自身の生い立ちとも重なる主人公・吾一の「たった一度しかない人生を、ほんとうに生かさなければならない」という言葉を綴りました。

あとがき:武蔵野に息づく文豪の精神

山本有三記念館(旧山本有三邸)は、三鷹の豊かな自然と、一人の文豪の精神が融合した、稀有な建築遺産です。戦後、GHQに接収された際、邸内は無残に白ペンキで塗り替えられてしまいました。接収が解除され、一度は有三の手に戻りましたが、変わり果てた我が家の姿に落胆した有三は、二度とここに住むことはありませんでした。

彼が東京都にこの土地と建物を寄贈したのは、そんな悲しみを乗り越え、この場所を未来の文化のために役立ててほしいという願いからだったのかもしれません。1994年(平成6年)には三鷹市の指定有形文化財となり、近年行われた大規模な改修を経て、往時の美しい姿が取り戻されました。

建物の南側には、有三が愛した築山の竹林や池のある庭園(有三記念公園)が広がっています。有三は「昔から竹が好きです」と語り、この庭の竹林も大切にしていました。現在、この公園部分は無料で開放されており、四季折々の花々や、有三が好んだ「休息の庭」の空気を感じることができます。

三鷹の駅から、玉川上水沿いの「風の散歩道」をゆっくりと歩いて訪れた洋館には、時代を超えて語りかけてくる、力強くも優しい「言葉」と「建築」の響きが満ちていました。

今回行った場所

三鷹市山本有三記念館

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