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さよなら「千里阪急ホテル」北摂の記憶と浦辺建築に想いを寄せて

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S.L
千里阪急ホテルへ!

大阪北摂エリアで育った私にとって、千里中央の風景は日常そのものでした。セルシーの独特な形状や、その先に広がる緑豊かな並木道。そして、駅から徒歩数分の場所に控えめに佇む「千里阪急ホテル」のオレンジ色の大屋根と白い壁は、千里中央の象徴的なランドマークでした。

夏休みに通ったガーデンプール、家族との特別な日の食事、友人の結婚式、特別な日も、何気ない日常のひとときにも、そこには常にこのホテルがありました。しかし50年以上にわたって街を見守り続けてきたこのホテルは、2026年3月30日をもってその長い歴史に幕を閉じようとしています。

1970年、大阪万博と共に生まれた「森の玄関口」


Opening ceremony of the 1970 Osaka Expo

千里阪急ホテルが華々しく開業したのは、日本中が熱狂に包まれた1970年(昭和45年)3月1日。まさに「人類の進歩と調和」を掲げた、日本万国博覧会の開幕と同じ時期でした。

当時、日本初の大規模ニュータウンとして開発が進んでいた千里ニュータウンにおいて、このホテルは「街」と「自然」をつなぐ玄関口としての役割を担っていました。万博開催中には、世界各国の賓客やパビリオンのアテンダーを多数迎え入れる国際的な社交場でもあったといいます。


出典:千里阪急ホテル

千里阪急ホテルの設計を手掛けたのは、岡山県倉敷市の「倉敷アイビースクエア」や「倉敷市庁舎」などで知られる建築家、浦辺鎮太郎 率いる浦辺建築事務所です。彼らが目指したのは、高度経済成長期のスピード感や大量生産とは対極にある「人間らしいぬくもりが伝わる建築」でした。

浦辺建築の粋を凝らした空間

ホテルの敷地に一歩足を踏み入れると、そこが都会のすぐそばであることを忘れてしまうような、穏やかな空気に包まれます。

まず目を引くのは、緩やかなカーブを描く客室棟と、オレンジ色の瓦屋根、そして白い壁のコントラストです。この南欧風の邸宅を思わせるスタイルは、周辺の豊かな緑に溶け込むようにデザインされました。

館内に入ると、鉄筋コンクリート造でありながら、木や煉瓦を多用した重厚かつ温かみのある空間が広がります。ロビーの床には木製ブロックが敷き詰められ、その質感は今では再現が困難なほど贅沢なものです。

特に印象的なのは、宴会場へと続く大階段です。ここには、浦辺建築のアイコンとも言えるレトロな吹きガラスの照明が吊るされ、温かな光を投げかけています。階段の手すりは、人が握ったときの感触を大切にするため、何度も削り出しの試作を重ねて作られたといいます。

地域に寄り添い、共に育った56年間

開業当初、千里阪急ホテルは128室の客室とレストラン、プールのみを備えたリゾートホテルでした。しかし、千里ニュータウンの発展とともに、地元住民から「ここで結婚式を挙げたい」という要望が寄せられるようになります。


開業時のホテル(出典:千里阪急ホテル)

それに応える形で、1976年には宴会場棟(東館)が増築されました。さらに1984年には、より多様なニーズに応えるため、現在のフロントやレストラン、高層の客室を備えた西館が完成します。

こうしてホテルは、単なる宿泊施設を超え、北摂に住む人々の人生の節目を見守る「街の広間」となっていきました。中庭にあるメタセコイアの木は、倉敷アイビースクエアから株分けされたものですが、今では立派に成長し、四季折々の表情でゲストを和ませています。

なぜ解体されるのか。老朽化と千里中央の再整備

地域の人々に愛され、建築的にも価値の高いホテルがなぜ姿を消さなければならないのか。

最大の理由は、施設の老朽化です。開業から半世紀以上が経過し、建物の維持・更新が大きな課題となっていました。運営する阪急阪神ホテルズは、2021年3月に老朽化などを理由に閉館を決定しました。

もう一つの理由は、千里中央地区全体の再開発計画です。現在、千里中央駅の東側では、大阪府や豊中市、地権者によって「千里中央地区活性化基本計画」が進められています。

この計画に基づき、老朽化が進む周辺の商業施設「千里阪急百貨店」や「セルシー」の敷地と、千里阪急ホテルの敷地を一体的に再開発する「千里中央地区再整備計画」が進められています。具体的には、ホテル跡地には隣接する千里東町公園と連携した賑わい・交流機能が導入される予定で、バリアフリー化された歩行者ネットワークの整備なども盛り込まれています。


1975年頃のセルシー

あとがき

大阪北摂の人間にとって、千里阪急ホテル、セルシー、千里阪急百貨店の一帯がなくなることは、千里中央の日常風景を構成してきた象徴的な建物の消失という、心にぽっかりと穴が開くような寂しさがあります。しかしながら、幼少時からここで過ごした時間や、蒸し暑い夏の日の中庭で聞いた蝉の鳴き声や、友人たちとの思い出は、私の記憶の中に生き続けるでしょう。

2026年3月。56年という歳月をかけて、千里の地に深く根ざし、数えきれないほどの物語を紡いできたこの名建築に、心からの感謝と最大限の喝采を贈りたいと思います。閉館の日まで、その美しさをもう一度、この目に焼き付けておきたいものです。

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