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荻窪三庭園の建築美をたどる散歩|荻外荘・大田黒家住宅・角川庭園

投稿日:

S.L
杉並区、荻窪へ!


旧大田黒家住宅洋館

東京・杉並区の荻窪おぎくぼは、いまでは静かな住宅街として知られていますが、かつては政財界人や文化人が多く住み、東京郊外の「文化住宅地」として発展してきた場所でもあります。関東大震災後、都心を離れた人々がこの地に邸宅や別荘を構えたことで、良質な住宅建築や庭園文化が育まれました。

その面影を今に伝えているのが、荻外荘・旧大田黒家住宅・旧角川家住宅からなる「荻窪三庭園」です。単なる公園ではなく、近代日本の住まいと暮らしの美意識を体感できる、貴重な歴史的空間がこの街には残されています。

なぜ荻窪には、これほど質の高い建築と庭園がまとまって残ったのか。それは、この土地が長く「住むための街」として大切にされてきたことと無縁ではありません。

本記事では、荻窪駅から歩いて巡れる「荻窪三庭園」を、建築と庭園を楽しみながらたどる散歩コースとして紹介します。昭和から近代へと続く住宅建築と、荻窪という街の空気感を、写真とともにのんびり味わってみましょう。

なぜ荻窪には歴史的な邸宅と庭園が残ったのか?

昭和初期の荻窪駅前大通り。未舗装の広い道路と低層の街並みが、郊外住宅地として発展していた当時の荻窪の姿を伝えています。

関東大震災後の東京では、多くの人が安全で静かな郊外に住まいを求めるようになりました。中央線沿線の荻窪も、その流れの中で新しい住宅地として発展していった街です。当時の荻窪は、下町のような密集した市街地ではなく、広い道路とゆとりある敷地を持つ住宅が並ぶ「住むための街」として整えられていました。

荻窪が戦後も大規模な再開発やタワーマンション化があまり進まなかった理由として、文化人や財界人が多く暮らし、大きな敷地を持つ邸宅や旧家が多かったことがあります。商業中心地として急激に開発されなかったことで、住宅地としての環境が守られ、結果的に建物と庭園が壊されずに残ることになりました。

こうして今日まで受け継がれてきたのが、荻外荘・大田黒家住宅・角川家住宅からなる「荻窪三庭園」です。

荻外荘|建築と昭和史が交差した政治の住まい

荻外荘てきがいそうは、築地本願寺などを手がけた建築家・伊東忠太が、昭和2年、大正天皇の侍医であった入澤達吉の別邸として設計した近代和風住宅です。のちに三度 内閣総理大臣を務めた政治家・近衞文麿の私邸となり、昭和史の重要な舞台として知られるようになりました。

芝生広場越しに見る荻外荘は、権威を誇示するような建築ではありません。低層で横に広がる構成は、荻窪の郊外住宅地という環境に溶け込み、「住まい」であることを第一に考えた設計であることが分かります。入澤達吉による創建時は「楓荻荘ふうてきそう」と名付けられたといいます。

一見すると穏やかな郊外住宅ですが、この家は昭和という激動の時代において、数々の政治判断が下された場所でもありました。


応接室

玄関土間から続く応接室は中国風の意匠でまとめられており、床には龍の敷瓦が敷設され、龍が描かれた天井画なども見られます。煌びやかな螺鈿らでんが施されたテーブルセットが、凛としたシノワズリーな空間を引き締めているように感じられます。

この応接室には、設計者である伊東忠太と、創建時の居住者であった入澤達吉、両者の意向が反映されていると考えられています。この部屋は近衞居住期になっても、大きな改変をされずに使用されたといいます。


客間

客間では、第二次近衞内閣組閣時の昭和15年、日独伊三国同盟締結へと至る過程の中で行われた「荻窪会談」をはじめ戦前期の重要な会談が行われています。楓荻荘を入手した近衛文麿は、この部屋を創建時の姿のまま使用しました。

客間には、当時としては珍しい冷暖房器具が備え付けられていました。腰壁壁紙の文様は、葡萄唐草、スイカズラ、インド更紗などを組み合わせた文様とし、長押上壁紙は連続する動物文様としています。連続する動物文様は中国山東省の漢代石墓の意匠によく見られるといいます。


書斎

近衞文麿本人が揮毫きごうしたものとされる「恭黙思道」の書が掲げられた書斎は、創建当時、天井の高い洋室でしたが、近衞が首相を退いた後に和室へと改修されたといいます。

終戦後、GHQより戦犯容疑で出頭命令を受けた近衞は、出頭期限である昭和20年12月16日の早朝、この部屋で自決しました。近衞家の人々はこの部屋を「とのさまのへや」と呼んで大切にし、現在まで大きく改変されることなく、近衞期の姿を今にとどめています。

荻外荘は、伊東忠太の名住宅建築であると同時に、昭和という時代そのものを体感できる邸宅です。穏やかな郊外住宅の内部に、日本の進路を左右する決断と、一人の政治家の最期が刻まれています。

旧大田黒家住宅洋館|音楽を楽しむ文化人の洋館

大田黒公園おおたぐろこうえん」は、大正から昭和期に活躍した音楽評論家・大田黒元雄おおたぐろもとおの旧屋敷地で、荻窪三庭園の中では日本庭園として最も広い規模を誇ります。四季折々の景観が楽しめる庭園として知られ、とりわけ秋の紅葉の時期には多くの人が訪れます。

静かな園内には、かつての邸宅の一部が残されており、現在は「旧大田黒家住宅」として公開されています。

旧大田黒家住宅洋館は、大田黒元雄の仕事場として昭和8年に建てられました。この建物は、単なる古い洋館というだけでなく、音楽家・文化人としてのこだわりが細部にまで凝らされた、昭和初期における「和洋折衷」と「モダニズム」の交差点とも言える建築です。

一階のホールは、大田黒氏自身がピアノを弾き、蓄音機で音楽を聴くための空間として設計されたといいます。

床はチーク材などの小片を組み合わせた幾何学模様の寄木張りで仕上げられています。これはヨーロッパの宮殿などでも見られる伝統的な技法で、視覚的な美しさだけでなく、当時の高級インテリアを象徴するものでもありました。

壁には濃淡をつけた碁盤目状の独特な壁紙が貼られています。光の当たり方によって表情を変えるこの壁紙は、落ち着きを感じさせながらも、空間に個性的なリズムを与えています。

天井から吊るされたペンダントライトや、暖炉脇のブラケット照明は、昭和8年の竣工当時のものがそのまま残されています。

建築そのものとあわせて注目したいのが、室内に置かれた調度品です。大田黒氏が愛用したという1900年製のスタインウェイのピアノや、蓄音機、楽譜の数々。彼が日本に紹介したドビュッシーやストラヴィンスキーといった近代音楽の歴史が、この空間に静かに溶け込んでいます。

この洋館は、庭園の静寂と、かつて響いていたであろう音楽の気配を、建築という形で今に伝える稀有な場所と言えるでしょう。

角川家住宅|出版文化を支えた静かな住まい

角川家住宅は、角川書店の創立者であり、俳人としても知られる角川源義かどかわげんよしが暮らした邸宅です。昭和30年に建てられた端正な佇まいの近代数寄屋造りの住宅で、源義の俳句仲間でもあった建築家・加倉井昭夫が設計を手がけました。

庭園側から眺める外観は、周囲の緑と自然に溶け込み、住宅地の一角に静かに身を置いています。主張の強い意匠は見られず、あくまで「住むこと」を優先した構成が、この家の性格をよく表しています。

角川源義が創作活動や交流の場としていた室内には、随所にささやかな美意識が散りばめられています。かつての書斎スペースには、角川書店の「昭和文学全集」や俳誌「河」などが並び、当時の創作の空気を今に伝えています。

華やかさよりも落ち着きと機能性を重んじた設えは、出版人としての実務的な側面を感じさせます。庭に面した開口部からは、やわらかな光と緑が室内に入り込み、外と内が緩やかにつながっています。この環境の中で、多くの書物が生まれ、言葉が丁寧に練られていったのでしょう。

角川家住宅は、政治の舞台や音楽のサロンのような華やかさはありません。しかし、言葉と出版文化を支えた「日常の場」として、荻窪という街の文化的な厚みを静かに補完しています。

あとがき

荻窪三庭園を歩いていると、建築や庭園が、かつての人々にとって「特別なもの」ではなく、ごく自然な日常の器であったことに気づかされます。政治、音楽、出版 ―― それぞれ異なる営みが、静かな住宅地の中で無理なく共存していました。

少しだけ足を止め、ゆっくり歩く。

建物の佇まいや庭の気配に身を置くことで、レンズ越しに見えてくるのは、ここで営まれていた暮らしと、荻窪という街が大切にしてきた時間の重なりでした。

荻窪三庭園さんぽルート

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