起雲閣「サンルーム」
日本有数の温泉地として知られる、静岡県 “熱海” 。
江戸時代の初めには徳川家康が湯治に訪れ、それ以降も徳川家御用達との湯処として愛された名湯地だ。八代将軍吉宗の時には、3,643樽もの湯が江戸城まで運ばれたという記録が残るほど。また、明治時代には数多くの政財界の重鎮や文化人が別荘を構えた由緒ある保養地でもある。
日本全国から新婚旅行客や団体旅行客が訪れた、戦後昭和における高度経済成長期の盛況ぶりと比較すると、幾分静かで、やや寂れた感も否めない令和の熱海だが、街そのものがまるっと “昭和遺産” といった趣きで、レトロ好きな人間にとっては逆にその風情が心地良くも思える。
熱海駅を降りて、どこか懐かしさを覚える片側アーケードの街並みを暫く歩くと、豪奢な門構えの日本家屋と遥か向こうまで続く白壁の外塀が見えてくる。
富豪の別荘から、文豪が愛した宿「起雲閣」へ
3,000坪もの広大な敷地の中、よく手入れされた芝に植木や巨石、池を配した日本庭園を和洋の館がぐるりと囲む。この屋敷の建築には大正から昭和にかけて活躍した三人の大富豪が時代を変えて関わっている。
初代オーナーは第一次世界大戦の戦争景気で財をなし、海運王と呼ばれた「内田信也」という人物だ。船成金で巨万の富を得ると、大正8年に母親の静養を目的とした別荘として、主屋である2階建ての和館と離れを竣工させた。
二代目は東武鉄道の社長として辣腕をふるい鉄道王の異名をとった「根津嘉一郎」が大正14年に譲り受け、甘美なローマ風浴室や、タイル・ステンドグラスで彩られたサンルームを備えた、日本と中世英国の建築様式を融合した洋館を増築した。
起雲閣「金剛」
起雲閣がまだ個人の別荘であった頃は、三菱財閥の別荘として建てられた “岩崎別荘” 、そして今は無き “住友別荘” と肩を並べる「熱海三大別荘」と称された名邸だったという。
そして戦後の昭和22年になると、三代目の所有者となった実業家「桜井兵五郎」が 起雲閣 と名付けて旅館を開業した。この桜井という人物も、長引く戦争を終結させた鈴木貫太郎内閣で、国務大臣を務めた政治家の肩書きも持つビッグネームだ。
これらの三人と、現代を生きる地域の人々によって、起雲閣の歴史と建築は令和の現在に至るまで紡がれている。
文豪たちの面影を遺す
初代の内田が建てた端正な日本家屋と、二代目 根津の洋館は絶妙な和洋折衷の調和を生み出し、桜井の手によって旅館として生まれ変わると、たちまち熱海を代表する高級旅館となり、日本近代文学を代表する名だたる文豪たちが愛する宿となった。
志賀直哉、谷崎潤一郎、三島由紀夫、山本有三、坪内逍遥、武田泰淳など、旅館「起雲閣」に投宿した文豪は数多い。
熱海を有名にした小説といえば、尾崎紅葉の「金色夜叉」がよく知られるが、起雲閣の館内には作家にちなんだ「尾崎紅葉の間・春風」や「坪内逍遥の間・松風」「文豪の間・初霜」と、往時の文人たちがここで過ごした時間を閉じ込めた様な宿部屋が展示室として遺されている。
縁側の窓から伺える、揺らめく緑豊かな日本庭園に身を委ね、静かに流れる時を過ごしながら、数々の文豪らが作品への思いを馳せたのであろう。
太宰治 “人間失格” 執筆の宿
起雲閣「大鳳の間」
彼の 太宰治 も、後に心中相手となる山崎富栄を秘書役として伴い起雲閣に逗留している。別館に滞在後、本館二階の「大鳳の間」に投宿したというが、この間に稿を起こしたのが「人間失格」であった。
人間失格は人間の持つ弱さや暗さを通して、ロマンへの渇望を綴った不朽の名作である。人間失格を脱稿した太宰は、山崎富栄と共に玉川上水に身を投げて自らの生命を絶った。起雲閣に訪れた三ヶ月後の事だったという。
贅をつくした瀟酒な旅の宿で、太宰と山崎は胸中深くどんな思いを抱いていたのだろうか? 二人が数日を過ごした「大鳳の間」、表面が微妙に波打つ大きな大正硝子から見下ろす庭園の緑が、涙目の如く揺らめくのが印象的な景色だった。
内田信也による和館の設え
太宰治が投宿した、二階「大鳳」一階を「麒麟」とした和館、そして同じく和風建物である離れの「孔雀」が、当地において初代オーナー 内田信也 が完成させた建築だ。これらの和館は伝統的な和風建築の佇まい見せる。
麒麟
起雲閣「麒麟」
「麒麟・大鳳」は、座敷の三方を畳廊下で囲んだ “入側造り” とし、座敷の床の間や付書院、欄間などは豪華な装飾や際立った特徴のない簡素な造りとしながらも天井は高くとり、庭園の風景と相まって開放的でゆったりとした空間を演出している。
群青色が特徴的な壁仕上げは、石川県加賀地方の伝統的な技法「加賀の青漆喰」が用いられている。この漆喰は旅館時代に施されたもので、旅館を開業した 桜井兵五郎 が石川県の出身であったため、取り入れられたと言われている。
孔雀
起雲閣「孔雀」
「孔雀」は内田が母の為に設えた居室となる。こちらも段差をなくした畳廊下で部屋を取り巻く入側造とし、車椅子生活の母に配慮した、当時としては画期的なバリアフリー設計となっている。
加賀の青漆喰とは対照的な朱色の壁が印象的な、離れ「孔雀」は、二度に渡って移築されて現在の場所に至る。窓ガラスや障子などは、建築当時の物だという。
小説家の舟橋聖一はこの部屋を好み、代表作「芸者小夏」「雪夫人絵図」など数々の名作をここで執筆している。また、三島由紀夫 も新婚旅行で「孔雀」に滞在したという記録が残っているらしい。
根津嘉一郎による洋館の設え
二代目オーナーである 根津嘉一郎 が敷地内に建てた建物は、伝統的な日本建築とは異なる、チューダー様式とアール・デコを基調とした洋風建築であった。
東武鉄道だけではなく、富国生命、根津美術館の創始者でもある大実業家、根津嘉一郎が別邸として当地に洋館を建てたのは62歳の時。すでに根津は14,000坪もある東京青山の広大な土地(現根津美術館)に一大園林と自邸を築いていた。
起雲閣「金剛」
根津はとにかく土木や建築が好きな人物で、庭をつくる時などは職方と一緒になって作業までしていたという。しかし、出来上がったものを楽しむ事はあまりなかった様で、モノ造りが好きな体質の人間だったらしい。
根津がこの別邸の普請に着手した時には、建築主として、また建築家や庭師としても、相当に熟練していたと想像できる。 敷地を拡張し、自ら采配して池泉回遊式庭園を構築、個性あふれる部屋を増築していった。
ハーフティンバーの意匠、花をモチーフにしたステンドグラス、モザイク模様のタイルの床、千石船の帆柱、手斧削りの柱など、要所に拘りを持って造りこまれているのが印象的だ。
金剛
起雲閣「金剛」
当館を譲り受けた根津嘉一郎が、昭和4年に最初に建てたのが家人用の応接間「金剛」と、併設する「ローマ風浴室」だ。
全体的には英国風のテイストだが、ステンドグラスやサンルームの床タイルには中国風の模様も見られる。柱や梁に施された名栗や面取りといった加工技術は日本古来からのものだ。一見それぞれの主張が激しい意匠だが、不思議と妙に調和しているのが面白い。
起雲閣「金剛」
様々な色の石で組み上げられた暖炉を取り巻く構造材には、ダイヤ・ハート・スペード・クラブの模様をはじめ草花の模様などが、 西洋館では非常に珍しい “螺鈿細工” によって施されている。
床の殆どは寄木張りに改められているが、建築当時は全面がタイル張りだった様だ。印象的なステンドグラスをはじめ、蝶番やドアノブなどは建築当時のオリジナルとの事だ。
ローマ風浴室
採光の良い大きなステンドグラス窓と、白とピンクで統一されたタイルが特徴的な「ローマ風浴室」。
近年に改修されているが、ステンドグラスとテラコッタ製の湯出口は建設当時の材料を用いて再現されている。当時から肌触りの良さや滑り止めの効果を考えて、浴槽の周りに木製のタイルが敷かれていたほか、畳敷きの脱衣室と化粧室も付設されていたという贅沢な浴室だ。
浴室内を優しく照らすランプの柔らかい光が、異国情緒溢れる雰囲気をより一層盛り上げている。
玉渓
起雲閣「玉渓」
続いて、昭和7年に来客用応接間の「玉渓」と、サンルームを併設する食堂「玉姫」を相次いで完成させた。これらも贅を尽くし、技を集めた設えとなっている。
「玉渓」はチューダー様式を基調としたヨーロッパの山荘風の意匠になってるが、暖炉を床の間に見立て、その脇には古刹の柱とも思しき円柱を配し、床柱に見立てているとも言われる。
起雲閣「玉渓」
暖炉を飾るオリエンタル風のレリーフやサンスクリット文字、入口の天井に用いられた茶室のような竹材など、多様な意匠が折衷され室内装飾は独特の雰囲気を醸し出している。
玉姫・サンルーム
起雲閣「玉姫」
「玉姫」においても洋風の暖炉と寄木の床、金唐革紙を貼った和風の折上げ格天井から豪奢なシャンデリアが吊るされ、さらに中国風の欄間といった各様式が渾然一体となっている。
玉姫の脇に設けられたサンルームは、アール・デコのデザインで統一されている。
起雲閣「サンルーム」
サンルームの名の通り沢山の日光を取り入れるため、天井と共に屋根も硝子で葺かれており、緻密なステンドグラスを通して豊かな陽射しが部屋に注がれる。天井一面のステンドグラスは、国会議事堂のステンドグラスを造るためにドイツで修業してきた職人が手掛けたという。
起雲閣「サンルーム」
足元に敷き詰められた色彩豊かな約二万枚の泰山タイルが彩りを添えている。
泰山タイルは、池田泰山によって設立された京都の泰山製陶所で造られた建築用装飾タイルの事。その類まれなる美しさは時の建築家たちを魅了し、大正期から昭和初期にかけて関西を中心に日本の近代建築で広く愛用された。
総じて、使われている建築材料もさることながら、当時の建築技法の粋を集めたのが根津別邸であり、起雲閣と言えよう。
あとがき
大正から昭和初期にかけて建てられた熱海の別荘群は、後継者不在や相続税問題などから人手に渡るようになり、ことごとくリゾートマンションへと変わってゆき、現存する別荘黄金期の建築は数えるほとどなっている。
三人の富豪の間で歴史を繋いできた起雲閣も、1999年に旅館は廃業となり競売にかけられる事となった。
3,000坪を有する土地はマンション用地としては最高の条件だ。取り壊される可能性が出てきた時、起雲閣を愛する市民たちが立ち上がり保存を望む声を挙げた。その後、紆余曲折を経て熱海市がこの敷地と建物を取得したという。現在は、その当時の市民団体で作り上げたNPO法人が指定管理者として委託を受け、起雲閣を管理運営している。
喫茶やすらぎ(旅館時代のBARをそのままにした喫茶室)
起雲閣のように、市の文化財の管理を民間へ委託し運営が成功しているケースは国内でも稀で、近年は県外の行政や市民団体からの視察も増えているという。
数多くの客人を招き入れた「起雲閣」は、現在も往時の姿を遺しながら、歴史的建造物の保存と熱海の文化発信地としての役割を担っている。
今回行った場所
起雲閣 公式ホームページ
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