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兵庫

倚松庵から富田砕花旧居へ「谷崎潤一郎」と歩く阪神間文学ロード散歩

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Hamzo
阪神間の谷崎ゆかりを巡る!


谷崎潤一郎記念館

谷崎潤一郎と “阪神間” のまち

阪神間 とは文字通り “大阪と神戸の間” にあたる地域の事で、自然豊かな六甲山系と穏やかな海に囲まれた風光明婿なまち。およそ西宮から芦屋を経て、神戸市灘区あたりまでのエリアを指します。

大正末期から昭和初期にかけて大大阪と呼ばれ、日本一の商業都市として隆盛を極めた"大阪"。明治元年の開港から西洋の文化がいち早く浸透し、独自のハイカラな文化を形成した港湾都市 “神戸" 。

およそ100年前、この二大都市の間「阪神間」で伝統とハイカラが共存する生活様式が花開きました。このライフスタイルは 阪神間モダニズム と呼ばれ、それらは現在にいたる日本の芸術や文化、建築、教育、娯楽、生活などに大きな影響を与えています。

阪神間モダニズムど真ん中に暮らした文化人といえば、東京から関西に移り住んだ文豪、谷崎潤一郎が代表格といえます。今回は阪神間に遺る谷崎文学の足跡を巡ってみたい。

細雪の家 “倚松庵”

神戸市東灘区に流れる住吉川の畔に立つ木造二階建て数寄屋建築。

倚松庵いしょうあん は昭和4年築の木造建物で、谷崎潤一郎が50歳の昭和十一年から57歳までの七年間を過ごした家です。洋風建築の多い現代の神戸では少し目を引く趣の建物ですが、昭和初期における阪神地方の中流住宅の典型だったようです。

谷崎潤一郎は東京日本橋の商家で生まれ育った江戸っ子ですが、関東大震災をきっかけに関西に移住し、自然豊かな阪神間の環境をこよなく愛しました。

倚松庵とは松に寄りかかっている住まいという意味で、松子夫人への愛情を表すと言われています。

倚松庵は、松子夫人やその妹たちをモデルとした長編小説細雪ささめゆき の舞台となった事でも有名です。ここで過ごした松子夫人とその妹たちや娘との出来事が等身大で描かれているので、この家に入ると細雪の情景が浮かんできます。


倚松庵 一階和室

谷崎は転居魔としても有名で、阪神間で過ごした21年の間に13回も引っ越しを繰り返します。その間の七年をこの倚松庵で暮らしていたという事は、かなりお気に入りの住まいだった事が窺えます。

岡本や魚崎など住吉川を挟んで西に東に転居を繰り返した谷崎氏は、水の流れのそばが好きだったそうです。阪神間には海・山・川があり緑も多い。そんなロケーションがこの地を気に入った理由かも分かりません。


倚松庵 一階応接間

数寄屋造りの外観ですが、一階の半分は洋風モダンな趣きとなっています。板張りの応接間はマントルピースやステンドグラスなどを設えた和洋折衷のテイストで仕上げられています。

これは元々の家主がベルギー人だったところから来ているそうで、阪神間モダニズムの近代和風建築の一例としても興味深い。

間取りや装飾、庭園など、細雪を彷彿させるポイントが随所にあり、各部屋にゆかりの一節が掲示されています。応接室の本棚には谷崎小説がびっしり詰まっていて、天気の良い日には縁側に腰かけて短編ぐらいは読めてしまいそうなロケーション。


倚松庵 二階八畳間

細雪の「こいさん、頼むわ。― 鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると、自分で襟を~」から始まる冒頭シーンが、二階八畳間を舞台に描写されています。

ちなみに、 「こいさん」 とは 「小娘こいとさん」 の略で、昔、大阪の家庭では一番末の娘をこう呼んでいたようですね。

採光の良い倚松庵は、 “陰翳礼讃” からはやや遠く、東側と南側に大きな窓が配され、太陽の光を最大限に取り入れられる設計になっており、また、南側の庭の景色をどの部屋からでも見られるようになっています。

屋内に差し込む光がポカポカと暖かく、いつまでも庭を眺めながら日向ぼっこしていたくなる感じ。ほっこり寛いだら、倚松庵を後に芦屋方面へ向かいます。

“芦屋川” に細雪の面影を見る

谷崎潤一郎の 「細雪」 は、昭和十年代、大阪船場の 蒔岡家まきおかけ の美しい四姉妹を描いた作品ですが、そのメインの舞台となっているのが芦屋市。 その中心を流れる芦屋川沿いには谷崎潤一郎の面影が今も残されています。

芦屋川は全長が6キロメートル余りの、芦屋市内では最大級の天井川。 川を挟んだ両岸の遊歩道は静かで、そのまま南下していくと河川敷にも降りられます。また芦屋川は桜の名所として有名ですよね。


細雪 文学碑

阪急芦屋川駅の直ぐ北にある開森橋の東側には、 細雪の文学碑 があります。1986年に谷崎潤一郎の生誕100年を記念し、芦屋川から運ばれてきた花崗岩かこうがんで建てられました。題字の "細雪" は松子夫人の筆によるもの。

芦屋川駅から少し下ると、細雪によく出てくる国道2号線の “業平橋なりひらばし” があります。


業平橋

「…今日はそう云う大雨なので、学校まで悦子を送り届けて置いて、帰って来たのは八時半頃であっただろうか。途中彼女は、余り降り方が物凄いのと、自警団の青年などが水の警戒に駈け歩いているので、廻り道をして芦屋川の堤防の上へ出、水量の増した川の様子を見て戻って来て、 “業平橋” の辺は大変でございます、水が恐ろしい勢でもうすぐ橋に着きそうに流れておりますなどと語っていたが、それでもまだそんな大事に至ろうとは予想すべくもなかった。…」。

細雪より引用

この細雪の大雨は1928年の 「阪神大水害」 のことではないか?と言われています。

業平橋を越えたあたりから、両岸に芦屋市の市木である松の木が並びはじめる。「芦屋川松風通り」 と名付けられたこの通り沿いはとても落ち着いた雰囲気で、さらに南下して、43号線を越えると松林が続く芦屋公園に出てやがて海が見えてきます。

芦屋川は山から海へまでの傾斜が比較的一定で、散歩している間の30分ぐらいで山の景色から海の景色へと変わる、阪神間ならではのロケーションです。それでは、芦屋公園からほど近い、谷崎潤一郎記念館へと参りましょう。

谷崎の世界観に触れる “谷崎潤一郎記念館”

芦屋市谷崎潤一郎記念館は、谷崎文学に親しみ、触れることを目的として、谷崎が愛した芦屋の地に開館したもの。館内には松子夫人や遺族から贈られたゆかりの品々を中心に、自筆原稿や書簡、愛用品などを見ることができます。

再現された往時の書斎からは、谷崎晩年の住居、京都・潺湲亭せんかんてい の庭を模した日本庭園が見られます。時より小気味よく鳴り響く ししおどしの音が静かな時間をつくっていた。

谷崎潤一郎記念館「潺湲亭の庭」

谷崎の関西最後の住まいとなった、京都下鴨の潺湲亭は敷地600坪の大邸宅で、下鴨神社の境内に接し、池を湛えた庭園がことのほか見事であったといいます。

館内では短編から長編まで何冊もの谷崎書籍が販売されていましたが、悩んだ挙句、読んでいなかった谷崎処女作の 「刺青しせい」 を購入。さて、次へ向かいます。



谷崎、芦屋の住まい “富田砕花旧居”

記念館から宮川へ出て、再び山側へ15分ほど歩くと、閑静な住宅街の一角に白塀の日本家屋が現れます。

富田砕花旧居 とみたさいかきゅうきょは谷崎潤一郎が倚松庵を住居とする前の、昭和9年から11年の間に住んだ家。この家で、のちの夫人となる松子と同棲を始めます。当時はともに、妻、夫がいる、所謂いわゆる 「W不倫」 の関係だったので、最初は人目を避けてひっそりと暮らした様です。

「打出の家」 と呼ばれた、谷崎のこの家を舞台とした小説 「猫と庄造と二人のおんな」 では、雑貨屋の主人庄造と前妻、新妻という現実と瓜二つの三角関係が、飼い猫リリーを巡る争いを通して赤裸々に描かれていて面白い。


谷崎が執筆活動をした旧書斎棟

この家で谷崎は転機を迎え、松子と祝言を挙げて正式に夫婦となると、源氏物語の現代語訳という大仕事に取りかかります。谷崎が執筆した旧書斎が今も遺されています。

当時の屋敷の大半は先の戦災により焼失。谷崎が執筆活動を行った旧書斎と庭にある大きな松の木が、戦火を逃れたもの。その後、この家には詩人である 富田砕花とみたさいか が移り住み、昭和59年に93歳で亡くなるまでの棲家となりました。

富田砕花について


富田砕花 肖像

富田砕花は山と旅が好きな芦屋市ゆかりの詩人で、兵庫県内の五十にものぼる学校校歌や市町歌を手がけた人物。米国の詩人ホイットマンを、日本に紹介した一人でもあります。

富田砕花旧居

芦屋市は 「富田砕花賞」 を創設し意思を継承。旧居の庭園には富田砕花が兵庫県を詠んだ詩の石碑が建てられています。

戦後に富田砕花の設計で建てられた母屋の縁側に座って庭を眺める。 「谷崎源氏」 が生まれた旧書斎棟に目をやると、まちの喧騒と切り離された、ゆったりとした時間が流れていた。

芦屋市立図書館 打出分室

阪神間文学ロード散歩の締めくくりは、それっぽく図書館へとやって来ました。

この近代建築は、別名、旧松山家住宅松濤館しょうとうかんとも言い、もともと明治期に大阪で逸身銀行として建てられたものが、芦屋市打出に移設されて個人宅として使われたのち、現在は芦屋市の所有となり図書館として使われています。

阪神間の土壌が育んだ作家には、谷崎潤一郎のほか、小松左京、藤本義一、手塚治虫などが挙げられますが、少年時代を芦屋市で過ごした 村上春樹 もその一人で、この図書館によく通ったといいます。



まとめ

どこか街並みに詩的情緒がある “阪神間” のまちをこよなく愛した谷崎潤一郎。

倚松庵からほど近い東灘区の岡本には、かつて唯一、谷崎潤一郎が自分の思うがままにデザインしたという自邸 「鎖瀾閣さらんかく」 がありましたが、残念ながら阪神大震災で全壊してしまいました。

一時、鎖瀾閣の復元に向けた声があがるものの、諸々の事情により実現には至りませんでした。鎖瀾閣が復元されていれば、阪神間の谷崎色がより濃いものになっていたんだろうと思う。

この記事を纏める為に写真を撮っていて、阪神間、とりわけ芦屋界隈には 「松の木」 がやたら多い事に気付いた。どうやら、松子夫人を愛した谷崎潤一郎が芦屋を好んだのは必然なのかもわからない。

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今回行った場所

倚松庵(開館日)土・日曜日(入館料)無料

谷崎潤一郎記念館  公式ホームページ
(休館日)月曜日・年末年始 (観覧料)一般300円

富田砕花旧居 (開館日)水・日曜日(入館料)無料

芦屋市立図書館打出分室

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