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青森「太宰治」ゆかりの建築と故郷を巡る、晩秋の津軽文学ロード散歩

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Hamzo
晩秋の津軽へ!


太宰治まなびの家(旧藤田家住宅)

北国の山間部で初雪が降り積った晩秋の頃、 小説「津軽」とカメラを鞄に詰めて、太宰治の故郷である青森へと旅に出た。

巡礼

「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ」

この有名な二行で、小説「津軽」の本編が幕を開ける。

太宰治が 新風土記叢書しんふどきそうしょ の一冊として、小山書店から「津軽」の執筆を委嘱され、上野発の夜行列車で青森へと向かい、故郷津軽を巡る旅へ出たのは昭和19年、時に太宰35歳、人間失格を脱稿した後に自らの生涯を終える3年前のこと。

序章で太宰はこう綴っている。

るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島をおよそ三週間ほどかかって一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯にいて、かなり重要な事件の一つであった。私は津軽に生れ、そうして二十年間、津軽に於いて育ちながら、金木かなぎ五所川原ごしょがわら青森あおもり弘前ひろさき浅虫あさむし大鰐おおわに、それだけの町を見ただけで、その他の町村に就いては少しも知るところが無かったのである。

(中略)

この六つの町は、私の過去に於いて最も私と親しく、私の性格を創成し、私の宿命を規定した町であるから、かえつて私はこれらの町に就いて盲目なところがあるかも知れない。これらの町を語るに当って、私は決して適任者ではなかつたという事を、いま、はっきり自覚した。以下、本編に於いて私は、この六つの町に就いて語る事は努めて避けたい気持である。私は、他の津軽の町を語ろう。

小説「津軽」より

そう残して、蟹田から北の竜飛岬、西海岸へと旅をするのだが、逆に序章で詳しく書こうとしなかったこの六つの町にこそ、津島修治(太宰治)の「故郷」があり、その性格や宿命を規定したものがあるのだと思う。

今回は、金木かなぎ大鰐おおわに深浦ふかうら弘前ひろさきに遺された、太宰ゆかりの建築の中で、津島修治が眺めたであろう日常の情景を、写真という四角い枠で切り取ってみる。そんな僕なりの巡礼の旅としたい。



金木、生家「斜陽館」

現在「斜陽館」と呼ばれる屋敷は、津軽の大地主であり政治家でもある太宰の父、津島源右衛門が明治40年に建てた和洋折衷の豪奢な邸宅。ここが太宰治の生家となる。680坪の広大な敷地に建物の延床面積は圧巻の393坪(1,300㎡)。

戦後は津島家がこの家を手放した後に旅館となり、現在は太宰ゆかりの記念館となっている。

この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである。間数が三十ちかくもあるであろう。それも十畳二十間という部屋が多い。おそろしく頑丈なつくりの家ではあるが、しかし、何の趣きも無い。 (苦悩の年鑑)

と、太宰自身は、このばかでかい家に少々辟易へきえきしていたようだが、たしかに旧津島邸は個人邸宅の規模とは思えないほど大きい。父、津島源右衛門が「金木の殿様」と呼ばれていたのも納得できる。

入母屋いりもや、軒反り、せがい造りの御屋敷をぐるりと囲む高さ4mの煉瓦れんが塀も、家そのものが大きいので遠目には然程さほどの圧も感じないが、間近に立つとまるで監獄の様な威圧感さえ感じる。

玄関を入ると、間口2間半、奥行き12間の広い通り土間があって、その左手、けやき板の美しい上り框の上に、少しゆがみの残った硝子がらす障子を隔てて、15畳の座敷、茶の間、常居じょうきょが連なる。

一番奥の板の間の、よく磨き込まれた床板が鏡のように白壁を映している。板の間から敷居で一段高くなったところが、家族の居間である常居。さらに一段高くなって、主人と長男だけが入ることが許されたという茶の間を配する構成。

明治42年6月19日、この壮大な屋敷の一階、北側和室10畳の小間で太宰治は産声をあげた。


太宰治が生まれた、叔母きの居室

太宰の産室に充てられたこの小間は、叔母である「き」の居室。後にも書くが、太宰は幼い頃、ずっと自分は叔母の子だと思い込んでいた。

しかしながら10畳間を小間と言ってのけるあたりに、この屋敷のスケール感がうかがえる。

座敷に置かれた衝立ついたての奥にはロココ調の階段が配され、このあたりから西洋モダン建築の趣きとなる。2階は和洋折衷の造りで、洋間の天井には金唐革紙きんからかわしが貼られ、洋室回りの廊下や階段室の漆喰モールディングの設えも見事なものだった。

左翼運動に傾倒していた太宰にとって、この大屋敷こそ搾取さくしゅする者の象徴であり、否定し、嫌悪すべき存在であったはず。と、同時に若い頃から贅沢三昧の生活をさせてくれた庇護者ひごしゃの象徴でもあり、この家なくして放蕩ほうとうなど許されるべくもなかった。その矛盾を抱えた煩悶はんもんこそが、作家、太宰治の原体験であったと言われる。

しかし、実際にこの屋敷に入り、座敷から広大な庭とその奥に立ちはだかる煉瓦塀を眺めていると、太宰の頭上に常にのしかかっていた「家」というものの存在の重さを実感できる。

金木、新座敷「疎開の家」

斜陽館の裏手、一区画離れた場所に立つ「離れ」は、太宰の兄、文治夫婦の新居として建てられたもので、当時は「新座敷」と呼ばれていた。元々、母屋から渡り廊下で繋がったていたものを、戦後に切り離して100mほど移転している。

太宰13歳の時に建てられたこの建物は「離れ」とはいうものの、洋室を中心に2間続きの和室を含む5部屋を配した、当時としては申し分の無い居宅である。

昭和17年、太宰33歳の時に病床の母を見舞うための帰郷を皮切りに、昭和19年には「津軽」の取材旅行のために再び帰郷、その翌年(昭和20年)から妻子を連れて疎開し、終戦後の昭和21年までの1年4ヶ月間をこの新座敷で暮らした。

太宰は新座敷に暮らした疎開中の1年4ヶ月の間に、パンドラのはこなどの23作品を精力的に執筆。新座敷での生活の中にあった故郷の友人や文学青年たちとの交流や、また、敗戦後の時流豹変に対する反発などから、数々の著作が生まれ、太宰文学後期への転換期となったと言われている。

太宰治疎開の家(旧津島家新座敷)は、太宰が文壇に登場してから暮らした居宅としては、唯一現存する貴重な建築であるが、その存在は近年まで殆ど知られていなかったという。現在は私設ミュージアムとして一般公開されている。

今回、金木の異なる趣きの2つの建築を訪れてみて、母屋の斜陽館には修治少年の思い出が宿り、作家、太宰治の面影や匂いはこの新座敷に強く遺っている様に思えた。



金木、旧芦野公園駅「駅舎」


「津軽鉄道 芦野公園駅」 出典:Nikon

・・・・ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野あしの公園という踏切番の小屋くらいの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言われ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言い、駅員に三十分も調べさせ、とうとう芦野公園の切符をせしめたという昔の逸事を思い出し、窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣くるめがすりの着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷ふろしき包みを二つ両手にさげて切符を口に座えたまま改札口に走って来て、眼を軽くつぶって改札の美少年の駅員に顔をそっと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんとはさみを入れた。

少女も美少年も、ちっとも笑わぬ。当り前の事のように平然としている。少女が汽車に乗ったとたんに、ごとんと発車だ。まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待っていたように思われた。こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違いない。金木町長は、こんどまた上野駅で、もっと大声で、芦野公園と叫んでもいいと思った。

小説「津軽」より

津軽鉄道の芦野公園駅での光景を「津軽」のなかで描いた一コマ。少女と美少年の姿が目に浮かぶ。ここに登場する小さな駅舎が現在もそのまま残されていて、傍らのプラットホームでは津軽鉄道が静かに時を刻んでいる。

昭和初期の鉄道開通時に建てられた旧芦野公園駅舎屋は、現在、赤い屋根の喫茶店「駅舎」として利用されており、内部は往時の昭和レトロな雰囲気の中にも温かさがある落ち着いた雰囲気のカフェになっている。

太宰が弘前で学生時代を過ごしていた頃に通っていた喫茶店でよく飲んでいたという「昭和の珈琲」をゆっくりと楽しんで、日暮れの頃に大鰐おおわにへと向かった。

大鰐、静養の宿「ヤマニ仙遊館」

太宰は生涯に5回、自殺や心中を試みている。最初の自殺未遂は20歳の初冬、弘前高等学校在学中のこと。下宿先の自分の部屋でカルモチンを大量に飲んで昏睡状態に陥った。

その後に実母の津島タ子と、二人で静養の時を過ごしたのが、大鰐温泉「ヤマニ仙遊館」という老舗旅館である。


太宰治が母と泊まったとされる部屋

大鰐温泉は約800年の歴史を持ち、江戸時代には津軽藩の湯治場として歴代藩主も訪れたとされる温泉郷。 ヤマニ仙遊館は、大鰐温泉で津島家が湯治に利用していた常宿でもある。

津軽の奥座敷、大鰐温泉で明治5年に初代創業者が旅館業を始めたのが起こりとされているが、江戸時代からすでに温泉施設を営んでいたようだ。

現在の本館は明治30年に建てられたもので、皇室関係者や、伊藤博文、東京市長や外務大臣を歴任した後藤新平などが利用したとされる。それだけ格式ある旅館だけに「金木の殿様」津島家の常宿になったのであろう。

太宰の母、夕子は病弱で、六男として生まれた修治の養育は叔母の「きゑ」や子守の「タケ」に任されていた。ずっと、きゑを実母と信じ、タケを慕っており、修治幼少期の生母の記憶は薄かった。

しかし、山内祥史著「太宰治の年譜」 には 「昏睡状態からの意識回復後、母夕子と大鰐温泉で静養。温泉客舎の二階二間を占有し、身の回りのいっさいの世話を、母夕子が受け持った」とある。

実はこの年、修治の弟の礼治が敗血症で突然他界している。傷心の母は、これ以上、息子に先立たれてなるものかと、修治を心の限り世話したのではないだろうか。

小説「津軽」で「大鰐の思い出はかすんでいても懐しい」と記した様に、太宰が大鰐温泉を思い出したとき、そこには自分を看病してくれた生母の姿があったのだと思う。

さて、ヤマニ仙遊館、太宰の部屋で一泊した翌日は、西海岸「深浦」まで車を走らせた。



深浦、旅の宿「秋田屋旅館」


旧秋田屋旅館「太宰宿泊の間」

津軽半島の西海岸に位置する「深浦町」は、かつて北前船の拠点であり、津軽藩の重要な港として栄えた町。

小説「津軽」で、父の故郷、木造きづくりを巡った太宰は、最終目的である子守の「たけ」との再会の前に、五能線で津軽平野を越え、深浦へ向かう。

そして深浦を散策した後、行き当たりばったりの宿屋「秋田屋旅館」へ這入はいる。

汚い部屋に案内され、ゲートルを解きながら、お酒を、と言った。すぐにお膳とお酒が出た。意外なほど早かった。私はその早さに、少し救われた。

当時、秋田屋旅館で出されていた料理には、鯛とあわびを食材とした豊富なメニューがあった様だ。津軽巡礼において初めて一人で過ごす夜、進む酒を止める者もおらず、その日、太宰は近所の料亭にまで足を延ばし深酒した。

太宰はこの旅館を随分気に入った様で、翌年の昭和20年にも、疎開で金木の生家へと向かう途中に敢えて遠回りをして「秋田屋旅館」に家族で宿泊している。

現在、秋田屋旅館は改築され、「太宰の宿 ふかうら文学館」として、太宰治や深浦ゆかりの文人墨客ぶんじんぼっかくを紹介している。 太宰が宿泊した部屋が当時のまま再現されており、今回、許可を貰って撮影させて頂いた。

カメラのファインダーを覗くと、海の音を聞きながら手酌する太宰の姿が浮かんで消えた。

弘前、まなびの家「旧藤田家住宅」

昭和2年に官立弘前高等学校文科甲類に優秀な成績で入学した修治は、18歳から3年間の多感な青春時代を弘前ひろさきで過ごした。

当時の弘高は全寮制で、自宅通学以外は寮に入るのがルールだったが、太宰は、母 夕子の意向もあって「病弱ノ為」と偽り、津島家の親戚筋にあたる藤田家に下宿し、学校に通った。 このあたりに修治の「ぼんぼん育ち」ぶりが垣間見える。

初年度の夏休み、実家、金木帰省中に芥川龍之介の自殺を知り、衝撃を受けた修治は、弘前の下宿に戻るとしばらく閉じこもっていたという。そして翌年の師走にカルモチン自殺を図り、母と大鰐温泉「ヤマニ仙遊館」へと向かうのであった。

旧藤田家住宅(現太宰治まなびの家)2階奥の修治の部屋には、当時使用していた机や茶箪笥ちゃだんすがそのまま保存され、鴨居に落書きした微分の数式や、藤田家の長男、本太郎が撮影した修治の肖像写真などが多く残されている。

太宰は後に自身の短編で、高校時代の過去をこう振り返っている。

これもやはり高等学校時代の写真だが、下宿の私の部屋で、机に頬杖ほおづえをつき、くつろいでいらっしゃるお姿だ。なんという気障きざな形だろう。くにゃりと上体をねじ曲げて、歌舞伎のうたた寝の形の如く右の掌を軽く頼にあて、口を小さくすぼめて、眼は上目使いに遠いところを眺めているという馬鹿さ加減だ。

私は今だってなかなかの馬鹿ですが、そのころは馬鹿より悪い。妖怪でした。貧沢三昧の生活をしていながら、生きているのがいやになって、自殺を計った事もありました。何が何やら、わからぬ時代でありました。

小説「小さいアルバム」より



まとめ

今回、数十年振りの青森で「津軽」と、関連書籍を読み返しつつ、一泊二日で太宰ゆかりの建築を巡ってみた。

飲む、打つ、買う、借金、不倫、自殺、と破天荒な部分が取り上げられがちな太宰にも、心温まるエピソードが案外多く残されていて、しばし垣間見える「普通の人間」的な素顔の中に、よく分からなかった人物像が、何となくすとんと腑に落ちた様に思う。

現代人の心の悩みや弱さを代弁し、共感される太宰作品だけではなく、自身の多面的な個性や、ありのままの姿を晒すことが出来る人間性みたいなものが、今も多くの人を惹きつける理由なのだろう。

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今回行った場所

斜陽館

太宰治 疎開の家

駅舎

ヤマニ仙遊館

太宰の宿 ふかうら文学館

太宰治まなびの家

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