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青森「新むつ旅館」生きた遊郭建築に泊まる! 八戸に残る一軒宿

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Hamzo
旧八戸遊郭へ!


新むつ旅館(旧新陸奥楼)顔見世の間

青森市、弘前市ひろさきしと並ぶ青森三大都市のひとつ 八戸市はちのへし は、藩政時代から漁港として、また江戸との交易拠点、三陸沿岸の避難港として栄えた “みなとまち” であった。

その昔、多くの船と人々が行き交い、賑わいを見せる港町に “花街かがい” や “遊里ゆうり” が自然発生的に形成される事は珍しくなかった。

八戸遊郭の起源は江戸時代までさかのぼり、東廻り航路の船乗りが八戸みなとに寄港したことから始まり、次第に東北屈指の歓楽街として隆盛を極めたという。


八戸湊町

新むつ旅館 のある「小中野こなかの」には幕末期から船着き場があり、多くの回漕問屋や船宿などが軒を連ね、それに併せて遊里も形づくられた様だ。

昭和5年発行の “全国遊廓案内” にはこう記されている。

八戸遊廓は隣接町の「小中野町」及び「鮫村」の遊廓とをって八戸遊廓と俗に呼ばれて居るのである。安政の頃、太平洋沿岸を航行する小廻り船が 小中野ひの湊川港に碇泊ていはくした時、船夫達の衣類を洗濯したり、身の廻りの世話をしたりした洗濯女が、私娼と変り出来た遊廓である。



八戸遊郭跡に遺る一軒宿

日本では、明治33年に発布された “娼妓取締規則” によって全国統一の公娼制度が完成する。いわゆる “遊郭” は法令上の正式名称として「貸座敷免許地」と呼ばれ、娼妓しょうぎがいる “妓楼ぎろう” は「貸座敷」と呼ばれた。

全盛期の小中野には39軒の貸座敷が立ち並んでいたというが、この遊里は花街としての側面も合せ持ち、料亭や見番などもあり100人以上の芸妓たちが街に華を添えていたらしい。

およそ一世紀前には不夜城の様相をていしていたという東北随一の八戸遊郭も、今はその面影もなく、静かな町並みが広がるばかり。

往時、妓楼が立ち並んでいたであろう小中野の八間道路を行くと、おもむろにそこだけ時間が止まったかの様な建物が姿を現せた。

120年変わらぬ佇まい

新むつ旅館は、明治31年に創建され 新陸奥楼しんむつろう の名で貸座敷として営業していた元妓楼である。

昭和33年の売春防止法施行を機に旅館へ転業し、現在に至っているが、120年余りにも及ぶ歳月を経て尚、その佇まいは往時の姿をとどめている。

明治期の創建後、約400軒の住宅が焼失した大正19年の小中野大火や、差し押さえなどの難を逃れながら、流れゆく時代を見てきた八戸の生き証人は、妖艶な面構えで今も多くの客人を迎え入れている。


元妓楼の面影を色濃く遺した新むつ旅館

その外観は、桁行けたゆき間口約六間の中央部に重厚な唐破風からはふを持った玄関を配し、その両脇に格子窓をずらりと備える。妓楼風情を感じさせる顔見世の格子だが、戦中は行政指導により覆いがされていたという。

玄関扉をガラガラと開けて中に入ると、奥へと真っすぐ伸びる廊下の向こうから、新むつ旅館の名物女将が笑顔で出迎えてくれた。

Y字階段と空中回廊

広い玄関土間から式台を上がると、天窓からの光に照らされた帳場へと続き、右手に新むつ旅館の名物とも言える、Y字階段と空中回廊が現れる。

柿渋で磨き上げられ黒光りする階段手摺と、吹き抜けに架けられた空中廊下で構成された空間はなかなか見応えがある。 二階に配された客間にはそれぞれ番号が振られていて、部屋札が将棋の駒の形をしている。これは、将棋しょうぎ娼妓しょうぎ の言葉遊びなのだという。

明治時代、このY字階段や空中回廊がどの様な意図で設計されたのかは計り知れないが、ただ意匠を凝らしたというだけではなく、遊女と遊客との劇的な対面を演出する舞台装置の様な役割を果たしていたのではないだろうか?

薄暗い中にも凛とした空気が漂う帳場も佇まいが良い。吹き抜けの中程に大きな神棚が奉られ、天窓から差し込む明りがほんのりと帳場を照らしている。

ソラ窓と言われる大きな天窓は、電燈が普及する前の町家で見られる工夫だが、当時のパッシブデザインはなんとも豪快なつくりだ。

元遊郭の面影

表通りに面した「顔見世の間」は帳場よりフロアレベルが一段高くなっていて、外を歩く遊客と、ここに座る遊女の目線が揃う様に設計されている。

明治の創建当初、新陸奥楼では三人の娼妓が色を売っていたという。 往時、この部屋で娼妓たちは格子窓の向こうにどんな景色を見たのだろうか。



客間の設え

新陸奥楼の二階には、障子を取り除くと大広間になる二間続きの一番、二番部屋と、やや大きい六番部屋、そして小部屋が並んでいる。 遊客は大部屋で芸妓らと宴会に興じた後、小部屋に伴われて娼妓と一時を過ごしたのであろう。

新陸奥楼は、娼妓と芸妓が同じ建物内で同居する、当時の八戸遊郭では珍しいスタイルだったという。

客間の片隅に、土蔵を解体した際に発見されたという大工の墨書が無造作に置かれているのだが、これがまたとても興味深い。

墨書には、明治四十年 未年、新陸奥楼の建築を手掛けた西野松太郎という大工棟梁以下、七名の大工、木挽職や左官職の名が、そして、この新陸奥楼に住んだ三名の娼妓と二名の芸妓の名が遺る。

当時の貸座敷遊興料は一等で二円。花代は一時間二十五銭で、大工の一日分の手間賃と同額だった様だ。

遺された遊郭時代の記憶

昭和33年の売春防止法以降、遊郭や色街には “負の遺産” といった暗いイメージが付き纏った。 それ故に廃業する業者も多かったが、遊郭から転業した旅館や下宿、料亭においても、その歴史を封印して営業する店が多かったという。

日本各地に今も幾つか遺る貴重な元遊郭の転業旅館でも、妓楼時代の面影を残すものは処分されてしまっている事が少なくない。

しかし、新むつ旅館はまるで遊郭の博物館の様だ。

“大福帳” には当時の商いの様子が、“遊客帳” には「登楼、四月一日午後九時」「色、黒キ方」「目、並」「頭、散髪」などと、遊客の登楼日時や身体の特徴、遊興費までが詳細に記されている。

娼妓が来客祈願の願掛けに使った木製の「金精こんせい様」は、当時、紐を付け引きずって歩く慣わしがあったとの事だ。長い物の短いもの、太いものに短い物… なかなか造形が生々しい。

名物女将のこと

新むつ旅館を切り盛りするのは、とても気さくな名物女将の川村紅美子さん。

生まれは東京都江東区深川の江戸っ子だが、昭和37年に結婚して八戸へやって来たそうだ。「こっちに嫁いで来るまでは、ここが元々遊郭だったなんて全然知らなかったのよー」と笑う。

新むつ旅館は素泊まりもできるが、女将の手料理と饒舌じょうぜつなトークが楽しめる朝晩二食付きをお勧めする。 建物の外観を遊郭時代の様に明るくライトアップするのが、女将がここ数年のうちにに叶えたい夢なのだと教えてくれた。

体力も衰えてきたが、それでも続けるのはこの仕事が好きだから。「いろんな人が来て、いろんな話を聞かせてくれるでしょ、それが楽しくて飽きないの。いつまで続けられるかわからないけど、やめようと思ったことはないよ、できる限り続けていきたいね。」と話す。

新むつ旅館は、全国から旅客が訪れる人気の宿だが、なかには古くから毎年、泊まりに来られるリピーターもいるのだとか。

この壮大な妓楼が醸し出す雰囲気そのものが 新むつ旅館 の魅力ではあるが、底抜けに明るい女将のキャラクターが、もう一つの大きな魅力である事は間違いない。

旧新陸奥楼が新たにライトアップされた暁には、また必ず登楼したい。

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今回行った場所

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