坂本龍馬 潜伏の間(桝屋清右衛門宅)
鞆の浦 で廻船問屋を営んでいた「桝屋」は、江戸末期に起きた いろは丸事件 の際、坂本龍馬が数日間滞在した商家だ。
龍馬は「才谷梅太郎」という偽名を使用し、屋根裏の隠し部屋に身を潜めた。約160年前、日本の未来を見据えながら、臆することなく談判交渉に挑んだ龍馬はこの部屋で何を考えたのだろうか。
潮待ちの港 “鞆の浦”
広島県福山市、沼隈半島の先端に位置する 鞆の浦 は、「潮待ちの港」として江戸時代に栄えた町だ。
船が風と潮の流れを利用していた時代、瀬戸内海の中央に位置し、潮の分かれ目となる鞆の浦には潮流の変化を待つ船が数多く集ったという。
また、鞆の浦は国内外との交易で栄えた港で歴史に名高い旧跡や遺構も多く存在している。鞆の浦には、その当時から残る常夜燈や寺社・町家が大切に保存され、昔風情の景観が今も残る。
坂本龍馬 と いろは丸事件
いろは丸事件は、坂本龍馬が京都の近江屋で暗殺される7ヶ月前の出来事だ。
1867年(慶應3年)4月23日、闇夜が海原を包む23時、坂本龍馬を乗せた海援隊の「いろは丸」と、徳川御三家 紀州藩(和歌山)の「明光丸」が瀬戸内海 六島沖で衝突した。
共にイギリス製の蒸気船ではあるが、伊予大洲藩(愛媛)から借り受けた商船のいろは丸 160トン に対し、明光丸は紀州藩が莫大な金額で買い付けた890トンの軍艦で、実にいろは丸の6倍近い巨船である。
明光丸は一度いろは丸に衝突した後、慌てて後退し、またもや前進して二度にわたり衝突したという。いろは丸は自力航行不可能となり、明光丸が曳航するものの、あえなく備中・宇治島沖で沈没した。
その船体は現在も瀬戸内の海深くに眠ったままだ。
明光丸の甲板上で海中に消えてゆく いろは丸 を静かに見送った龍馬は、即刻、明光丸船長の高柳楠之助に今後について、凛と申し入れを行う。
「このような海難事故は過去に例がないことである! 国際法である “万国公法” に則り、この後の交渉を進められたい!」 そして、事故の交渉事は現場近くで行うのが国際ルールであると、交渉地を「鞆の浦」に指定した。
藩命を受けて長崎へ航行中であった明光丸は、鞆の浦への立ち寄りを避けたかったが、国際ルールを振りかざしながら一戦も辞さない覚悟で食い下がる龍馬に根負けし、それに従うことになる。
龍馬には「紀州藩は万国公法のことを詳しくは知らないだろう」という目算のもと大博打に出たのだ。万国公法とはアメリカの法学者が著した国際法の教科書で、日本国内に入ってきたのもつい最近のことだった。
勝海舟らを通じて最新の国際事情にも詳しかった龍馬ではあるが、この辺りに狡猾さと、並外れた胆力が伺える。
4月24日 早朝、坂本龍馬たちを乗せた 明光丸 は鞆の浦に上陸。
紀州藩は海を望む高台にある圓福寺に、龍馬たちは 桝屋清右衛門宅 をそれぞれの宿舎とした。いろは丸と大量の積み荷を失った龍馬は、紀州藩から多額の損害賠償金を支払わせるべく画策するのだ。
同日13時、二つの宿舎のちょうど中間にある魚屋萬蔵邸においてさっそく談判が開始された。
紀州藩側は、衝突時に士官が甲板にいなかったことを認めたものの、いろは丸の船灯が点灯していなかった事が衝突の原因であると主張。これに龍馬が真っ向から反論し、さらに両船の舵取りなどをめぐり互いの主張は平行線をたどった。
談判交渉が行われた「対潮楼」
鞆の浦での談判交渉の期間中、龍馬は桝屋に戻ると、海に面した屋根裏の隠し部屋で交渉の策を練った。この時、才谷梅太郎の偽名を使ってたのは、既に幕府から命を狙われていた事を心得ていたからだろう。
実際に龍馬が身を隠した桝屋の屋根裏部屋は、まるで彼の息づかいを感じるような雰囲気までもが見事に保存されている。
桝屋清右衛門宅
交渉を重ねること4日間、時には談判の場を「対潮楼」に変えて激論が交わされるが、ついに4月27日午後2時、交渉は決裂した。紀州側は長崎での交渉を一方的に告げて、強引に明光丸を出航させたのだ。
後を追った龍馬と紀州藩の談判交渉は長崎に舞台を変えて行われた。
長崎においても龍馬は「万国公法」をちらつかせ、俗謡を流行らせるなど巧みな交渉を展開し、土佐藩の参政 後藤象二郎、親友 岩崎弥太郎の後押し、薩摩藩の五代友厚の周旋により、見事、賠償金七万両の支払いを承諾させたのだ。
賠償金 七万両(100億円)の行方
桝屋清右衛門宅
最終的に紀州藩が賠償金の七万両(現在の貨幣価値で100億円以上)を承諾したのが5月28日。実際に支払いが行われたのは、事故から半年後の慶応3年11月7日のことだった。しかし、龍馬の懐には一銭も入る事はなかった。
なぜなら支払いから8日後の11月15日、暗殺されてしまったからである。
さて、莫大な賠償金は誰の手に渡ったのか?
七万両のうち三万両は、いろは丸を借りていた大洲藩の元に渡り、残りの四万両は交渉に尽力した 後藤象二郎、そして 岩崎弥太郎 に流れたと言われている。
いろは丸の賠償金が、土佐藩氏 岩崎弥太郎を祖とする三菱財閥の元になっているのは知られた話。実は賠償金が初代弥太郎だけではなく、二代目岩崎弥之助らが大株主を務めた 麒麟麦酒 設立の元出金になったという話をご存知だろうか?
架空のものとされる、麒麟麦酒のラベルに描かれた奇妙な動物。よく見ると頭が「龍」胴体から尻尾が「馬」の様に見える。
新しい日本を夢描きながら、道半ばにして世を去った坂本龍馬。彼が行った生涯最後の大交渉とその成果を後世に残すべく「龍馬」をモチーフにしたものが採用されたのだ。
あとがき
最近では、映画のロケ地や演歌の舞台となるほど注目を集める「鞆の浦」。宮崎駿もこのまちを愛する一人で、“崖の上のポニョ” の舞台にとなっているのは有名ですよね。
フォトジェニックでレトロな街並みが人気で、日中は観光客も結構多いですが、夜明け前から早起きして訪れた静寂の常夜燈はとても風情がありました。
鞆の浦の街並み
記事後半のエピソードはフィクションめいた部分が多いのですが、それがまるで真実と思えるほど、坂本龍馬という人物が破天荒で謎多き人間だったのだと思う。幕末ファンにとっては、動乱の幕末期の雰囲気が漂う鞆の浦で、龍馬の面影を追いながらまち歩きをするのも楽しい経験でした!
今回行った場所
鞆の浦
桝屋清右衛門宅 公式HP
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