265年に渡り続いた江戸幕府による封建国家から、明治維新を経て近代国家への道に踏み出した150余年前の日本。
時代が大きくうねりを見せた幕末期、数多くの英雄が生まれ、政権交代を巡る動乱劇が日本各地で繰り広げられますが、その舞台の中心地は江戸ではなく、天皇と御所を有する千年の都 “京の町” でした。
京都「祇園四条」
全国1億2千万の幕末ファンの皆様こんにちわ。
京都市内の建築物の多くは、幕末に起こった 禁門の変 による “元治の大火” で焼失していまいますが、それでもなお、京都には幕末維新の記憶が刻まれた建築遺構が現在も幾つか残っていますよね。
今回、ご紹介するスポットは、幕末ファンなら一度は行った事のある場所も多いと思うのですが 「2日間で幕末維新ゆかりの史跡を効率よく見てまわる」 というテーマのもと、日本の転換期となった幕末という時代に想いを馳せながら京の町を巡ってみたいと思います。
それではJR京都駅から出発します。どうぞ最後までお付き合い下さい !
JR京都駅から徒歩15分
DAY1 西本願寺太鼓楼
幕末期、京の町は諸藩から尊王攘夷派・倒幕運動の志士が集結することにより、著しく治安が悪化してゆきます。 そんな時勢、京都守護職を命じられた会津藩主 松平容保の配下で、反幕府勢力を取り締まる武闘派組織 “新選組” が結成されます。
剣術に秀でた勇猛な漢のみで結成された新選組。 発足当初の隊員数は僅か24名でしたが、新選組の名を世に知らしめた 池田屋騒動 以降、隊員数が爆発的に増加し、最盛期には隊士200名を数えたといいます。
西本願寺
そこで 壬生の屯所が手狭となった新選組は、近くの西本願寺に移り、境内に “新選組本陣” の看板を掲げ、第二の屯所として北集会所と 太鼓楼 を選び、西本願寺境内で日々、武芸の稽古や砲撃訓練を行ったという。
西本願寺太鼓楼から徒歩10分
DAY1 旧島原花街
島原 「角屋」
“島原” は京都市下京区に位置する旧花街の名称。 日本で初めての公許花街として賑わいを見せた島原は、幕末志士も足しげく通った “高級花街” として知られています。
往時の賑やかさはありませんが、花街特有の大門や、揚屋、置屋などの遊郭建築がちらほらと残り、その面影を残しています。
島原大門
島原大門
江戸の吉原、大坂の新町と並ぶ、日本三大遊郭に数えられた京都島原。いわゆる「廓」と呼ばれるランドスケープは、周囲を塀と堀で囲み出入口に “大門” を設ける構成となっている。 大門の傍らでは今も昔も変わらず “見返り柳” が花街らしい風情を醸し出しています。
角屋
日本に唯一残る大型の揚屋建築(重要文化財指定)
新選組の屯所があった壬生村や西本願寺の太鼓楼から歩いて数分ということもあって、とりわけ “新選組” と縁が深い島原。新選組きっての暴君として名を馳せた初代筆頭局長 “芹沢鴨”が、角屋で大酒を喰らった夜に、近藤勇一派に粛清(暗殺)されたのは有名な話。
角屋は江戸時代の揚屋がきれいに保存された貴重な建築遺構です。 夏期と冬季を除いた期間は内部の見学が可能なので、島原を訪れた際には立ち寄ってみる事をお勧めします。
輪違屋
江戸時代初期から営業を続ける現役のお茶屋
元禄元年、置屋として創業した輪違屋。 現在も島原で唯一営業している置屋兼お茶屋です。二階の傘の間には “桂小五郎” 直筆の掛け軸が床の間に掛けられていて、一階座敷には屏風に仕立てられた “近藤勇” 直筆の書が飾られています。
輪違屋は現役のお茶屋という事もあり、通常は内部非公開の建築です。
旧島原花街から徒歩20分
DAY1 八木邸
幕末、230年ぶりに徳川幕府将軍が上洛を果たします。十四代将軍 家茂の上洛にあたり、その警護の為に “浪士組” なる組織が結成された。この組織は腕に覚えがある者であれば、犯罪者であろうと農民であろうと身分は一切問わないという画期的な組織でした。
後に彼らは江戸に呼び戻される事になりますが、近藤勇や芹沢鴨をはじめとする13名は “八木邸” を宿舎として京の地に残る事になります。そこで誕生したのが、江戸幕府お抱えの武闘派組織 “新選組” です。
新選組発祥の地であり、また彼らの屯所として使われた八木邸は、常時一般公開されています。
八木邸から徒歩1分
DAY1 壬生寺
八木邸の隣地に建つ “壬生寺” も新選組と縁の深いお寺。かつて、壬生寺の境内は組の兵法調練場に使われ、武芸や大砲の訓練が行なわれました。境内には新選組局長 近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚があります。
壬生寺
一番隊隊長の沖田総司が境内で子供達を集めて遊んだり、近藤勇が壬生狂言を観賞したり、新選組が境内で相撲興行を企画したりと、当時の面白い逸話が壬生寺には残っています。
新選組隊士のことを “壬生浪士” とも呼ぶのは、壬生界隈の屯所や、壬生寺を中心に活動した事が広く知られた事に由来しています。
壬生寺から徒歩25分
DAY1 二条城
やはり京都幕末維新ゆかりの史跡巡りに “二条城” はメインに持ってきたい建築のひとつ。
現在の二条城は、関ヶ原の戦いで勝利した “徳川家康” が、江戸幕府を開くことをきっかけとして、上洛時の宿所とする為に建造した城であり、15代将軍 “徳川慶喜” が諸国の大名を集めて 大政奉還 を宣言した場所。
言わば、二条城は 徳川幕府の「始まり」と「終わり」の舞台となった城となります。
二条城 「二の丸御殿」
古都京都の文化財として世界遺産にも登録されている二条城ですが、当時の天守や本丸御殿は、落雷や大火などにより焼失し現存していません。 しかし、大政奉還が行われた “二の丸御殿” を中心に、江戸幕府の作事奉行 小堀遠州 の庭園など、見どころは満載です。
国宝である二の丸御殿の内部は、日本絵画史上最大の画派である狩野派による障壁画や、多種多彩な建築装飾が設えらていて、まさに将軍の御殿にふさわしい豪華絢爛な空間となっています。写真撮影NGなのが非常に残念。
二条城は常時、見学ができますが、国内外から観光客が押し寄せる超有名スポットなので、時間にゆとりを持って回りたいですね。
二条城から徒歩15分
DAY1 京都御所
仙洞御所
さて、1日目の最終スポットは、幕末動乱のど真ん中 “京都御所” です。
京都御所は明治初期に東京奠都が行われるまでの500年もの間、歴代天皇が住まわれた神聖な場所。
御苑内は今でも流れる空気がどこか清らかな感じがしますが、当時の御所界隈には公家屋敷や主力藩邸が立ち並び、今以上に粛然とした雰囲気に包まれた場所だったのだと思う。
幕末期の天皇は “幕府側” と “反幕府側” の双方が政局の主導権を握る為に、味方に付けようと奪い合う存在でした。
なかには御所焼き討ちなどを企てる過激なテロ集団も現れるのですが、御所を舞台に勃発した幕末維新史における重要な事件であり、薩摩藩と長州藩の関係を悪化させるきっかけとなった武力衝突が “禁門の変” 、俗に言う「蛤御門の変」です。
蛤御門
京都御苑一帯が主戦場となり、その最大の激戦地が現存する 蛤御門 の付近でした。蛤御門には今も門柱などに弾痕らしき跡が残り、当時の激戦を物語っています。
この戦により京都市内の殆どが戦火によって焼失するという、応仁の乱以来、京都で400年続いた太平の世を揺るがす大事件でもあったのですが、長州藩がこの戦いに敗れたことにより、幕末動乱劇は大きな転機を迎えることになります。
京都御所は通年公開がされています。タイミングが合えば事前予約をして仙洞御所をゆっくり散策してみたいですね。
1日目終了 !
1日目は京都駅から御所までの幕末維新ゆかりの建築を巡りました。 直線距離で約5kmと狭い範囲ですが、意外と多くの幕末史跡がありますよね ! 1日目のコースは体力に自信のある方なら歩いて回るのも良いかも分かりません。
2日目は洛北から洛南の伏見まで電車とバスを使って移動しながら巡ってみたいと思います !
DAY2 岩倉具視幽棲旧宅
“岩倉具視” は公家でありながら幕末志士と共に維新を牽引し、明治初期に最も出世した人物のひとりです。しかし岩倉はずっと政治の表舞台で活躍をしていた訳ではなく、失脚、そして洛外追放、蟄居生活を強いられた苦悩の時期がありました。
※ 蟄居 … 江戸時代、武士や公家に科した刑罰の一つ。自宅や一定の場所に閉じ込めて謹慎させたもの。
政治抗争の果てに御所を追われ、政治の中心から離れながらも、虎視眈々と政界復帰を目指して幽棲を続けたのが、この茅葺き屋根の小さな木造家屋 “岩倉具視幽棲旧宅” になります。
岩倉具視幽棲旧宅 主屋「鄰雲軒」
京都中心部の藩邸や寓居などは、戦火や市街化で殆どが姿を消していますが、岩倉具視幽棲旧宅は市内から離れた立地という事もあり、当時の面影がとても美しく残されていてる建築だと思います。
岩倉の幽棲中、この旧宅には坂本龍馬や中岡慎太郎、大久保利通など多くの維新の志士たちが訪れ、政治談義を交わしたといいます。そしてついには王政復古を成し遂げ、岩倉は明治維新の幕開けと共に再び政治の表舞台に立つことになります。
岩倉具視幽棲旧宅からバスで40分
DAY2 黒谷金戒光明寺
動乱の幕末期、西南諸藩に代表される倒幕派に対して、幕府を補佐する派閥の事を “佐幕派” と呼びました。徳川幕府政権時、その代表格となるのが白虎隊で有名な “会津藩” です。
江戸幕府は、荒れきった京都の治安回復の為 “京都守護職” なる役職を作ります。 傘下の、京都所司代、京都町奉行、京都見廻組、さらに新選組といった組織を統括する、今でいうところの警視総監といったところでしょうか。
その京都守護職に任命されたのが、当時の会津藩主であった “松平容保” でした。 若干28歳の松平容保が京都守護職に就任し、約千名の藩士を率いて上洛した際に本陣としたのが “黒谷金戒光明寺” です。
金戒光明寺が本陣として選ばれたのは、城構えの作りであり、要所である御所にも近く、何より千名の軍隊が駐屯できるという事が理由とされています。 山門を潜ると境内からは京都の市内の景色を見渡すことができます。
DAY2 桂小五郎 晩年の足跡
桂小五郎(後の木戸孝允)は言わずと知れた長州藩のリーダーであり、西郷隆盛、大久保利通らと共に維新三傑に名を連ねる明治維新の立役者。 現在の京都市役所は 元長州藩邸 があった場所で、界隈にはその史跡が点在しています。
黒谷金戒光明寺からバスで20分
木戸孝允旧邸
当時は超過激派と言われた長州藩の指導者であり、剣の達人でありながらも、生涯で一人も人を斬らなかったという桂小五郎には、ある種の美学の様なものを感じ、個人的にも好きな幕末志士のひとりです。
木戸孝允旧邸は、近衛家の下屋敷を譲り受けて木戸が別邸となした木造家屋。 病床に臥し最後を迎えたのもこの旧邸です。 明治10年5月に明治天皇が見舞いに訪れるも、その一週間後に西南戦争中の西郷隆盛を憂いながら死去しました。
木戸孝允旧邸から徒歩7分
幾松
料亭旅館 「幾松」 は、桂小五郎と、芸妓幾松(のちの松子夫人)の木屋町寓居跡です。 桂小五郎と幾松のラブロマンスの話は有名で、池田屋事件の後、新選組から狙われる小五郎を、幾松が献身的に手助けした逸話が残っています。
43歳の若さで木戸孝允が没した翌日、松子夫人は剃髪染衣し、翠香院と改め、二人の想い出に溢れたこの屋敷で静かに余生を過ごしたといいます。
鴨川に面して建つ幾松では、京都の名物とも言える納涼床が楽しめます。 納涼床の歴史も実に古く、豊臣時代の頃に裕福な商人が夏に遠来の客をもてなす為、五条河原付近の浅瀬に床几を置いたのが始まりと言われています。
長きに渡って愛された料亭旅館「幾松」は、2020年に惜しまれながらもその歴史に幕を下ろし、2023年に解体されてしまいました。
幾松から徒歩6分
DAY2 酢屋
明治の夜明けを見ずに命を散らした維新の英雄 “坂本龍馬” 。 土佐藩出身の龍馬も京都にゆかりの深い人物ですね。最愛の妻、お龍と出会ったのも、31年の短い生涯を終えることになったのも京都の近江屋でした。
流れも清らかな高瀬川の程近くに建つ “酢屋” は江戸中期の享保年間から約300年続く材木商。 酢屋の6代目酢屋嘉兵衛は坂本龍馬の維新への志に理解を示し、佐幕派、倒幕急進派の双方から命を狙われていた龍馬を酢屋の二階にかくまいました。
酢屋に海援隊の京都本部を置き、各地での活動を広めていた龍馬。 現在も幕末当時と同じ建物で商いを行う酢屋の二階には、往時に龍馬たちが過ごした部屋が復元されています。
高瀬川の曳舟
その名の通り、かつての「木屋町」には材木問屋や材木商が軒を連ねていました。江戸時代初期に高瀬川が開削され京都と伏見が結ばれます。高瀬川の水運によって薪炭や材木が運ばれ、商いの隆盛と共に繁華街となり木屋町は栄えていきました。
酢屋から徒歩3分
DAY2 三条大橋
三条大橋 は江戸の日本橋から五十三の宿場を繋いだ旧街道 “東海道” の西の起点として知られていますよね。京都市内を流れる鴨川にかかる橋の中では唯一、木製の欄干が残り、歴史的情緒を感じる事ができる橋でもあります。
現在の三条大橋は1950年(昭和25年)に架け替えられたものですが、橋の安全を祈願するために欄干の柱頭に設けらる玉葱型の “擬宝珠” は、豊臣時代に架橋された初代三条大橋のものが使われています。
三条大橋西側から二つ目の擬宝珠に、目で見てすぐにわかる “刀傷” の様な跡があり、この傷跡が、幕末の動乱時代に起きた歴史的大事件のひとつ “池田屋事件” の乱闘で刻まれた跡であるという話は、幕末ファンには良く知られる都市伝説。
池田屋事件 とは三条木屋町の旅館、池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの志士を 新選組 が襲撃し、過激派志士が企てていた、一橋慶喜や松平容保らの暗殺、そして孝明天皇の拉致といったテロ事件を未然に防いだとされるもの。
三条大橋の刀傷が、尊王攘夷派志士と新選組隊士による大乱闘で刻まれた傷なのか? 否か? という謎について、こちらの記事で解説しているので、興味のある方は、是非、読んでから三条大橋を渡ってみて欲しい。
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さて、幕末維新ゆかりの建築巡りも終盤です。 三条大橋を渡り、京阪電車に乗って伏見まで参りましょう !
三条大橋から電車で20分
DAY2 寺田屋
寺田屋
寺田屋は江戸時代から続く伏見の船宿。現在も旅籠の看板が掲げられ旅館として営業されています。この宿屋を舞台に薩摩藩の内紛「寺田屋騒動」と、坂本龍馬の襲撃事件「寺田屋遭難」という二つの事件が起きたのは有名ですよね。
残念ながら、当時の寺田屋は鳥羽伏見の戦に罹災し焼失しています。現在の建物は後の時代に再建されたものですが、うまく当時の様子が再現されています。
寺田屋から徒歩8分
DAY2 魚三楼
魚三楼
大政奉還の翌年、江戸の薩摩藩邸 焼き討ちに端を発した「鳥羽伏見の戦い」が京都伏見を戦場にして勃発しました。 薩長を中心とした新政府軍と、徳川慶喜を擁する旧幕府軍によるこの戦は “戊辰戦争” の初戦にあたります。
新政府軍が掲げた “錦の御旗、さらには慶喜の逃亡により旧幕府軍の士気は急激に下がり、鳥羽伏見の戦いは新政府軍の勝利に終わるのですが、両軍の死者は400名を数えるほどの激戦でした。
伏見桃山の “魚三楼” は江戸時代の明和元年創業の老舗料亭。 鳥羽伏見の戦いによって伏見の大半が焼け野原になるのですが、幸いにしてこの魚三楼は消失を免れます。 店先の千本格子に残る弾痕が当時の激戦を今に伝えています。
魚三楼から徒歩4分
DAY2 御香宮神社
伏見は名水が湧き出る地であることから、かつては “伏水” と呼ばれ、その名水を使った酒の製造が今日でも盛んに行われています。 御香宮神社には、日本の名水百選に選ばれる “御香水” なる水があります。
かつて、豊臣政権時代は伏見城の守り神として崇められたといわれる御香宮神社ですが、鳥羽伏見の戦いでは官軍となった薩摩藩の本陣となり、南側に位置する伏見奉行所に籠った新選組らの旧幕府軍と交戦したと記録されています。
2日目終了 !
2日目は洛北から洛南まで、大きく移動しながら幕末維新ゆかりの建築を回りました。 時間に余裕があれば、祇園から二寧坂を登り、維新の道を抜けて霊山歴史館へ立ち寄れば、より京都らしい風情を感じる事が出来ると思います。
あとがき
明治維新は多くの血が流れずに成された革命として世界的にも有名だと聞いた事がある。
今から150余年前に展開された「激動の政権交代」の舞台となった京都と、日本全国から新しい国づくりを目指して京のまちに集結した幕末の志士たち。
今回2日間で回った建築は、過去に何度か足を運んだ事のある場所も多いのですが、“幕末維新” という縛りで経巡ってみると、それぞれの建築で起こった出来事が、やはり一つのストーリーとして繋がっているのだな… と改めて感じる事が出来た。
また次は違った視点で、大好きな京都のまちを歩いてみたい。
では、また !
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