京都市内を南北に走る 新町通 は、一筋東にある室町通と共に、昔から京呉服の卸商や着物関係の商家が多い事で知られています。
六角通と蛸薬師通の間、新町通に面して建つ “無名舎” がある辺りは、古くから三井家などの豪商が軒を並べ、京都でもひときわ裕福な町でした。
無名舎
無名舎(吉田家住宅)は白生地の卸商「吉友」が、1909年(明治42年)に建てた千本格子のファサードが特徴的な 京町家 。
京町家とは一般的には現行の建築基準法が施行された、1950年(昭和25年)以前 に京都市内で建てられた、伝統的軸組工法の木造家屋ことを言います。
玄関を入ると “通り庭” と呼ばれる土間が、敷地の奥の蔵や奥庭まで続き、それに沿って “続き間” や “坪庭” がならんでおり、細長い構造になっている。 いわゆる「うなぎの寝床」ってやつですね。
無名舎は典型的な 表屋造り の京町家。 表屋造りとは京都に多く見られる大型商家の町屋形式の一つで、こちらの町家は、道路に面した部分が店舗棟、中庭と玄関棟を隔てて住居棟、奥庭の後に土蔵2棟の造りとなっています。
無名舎「店の間」
店の間には商売の奥義であり、幸福をもたらす美徳という “堪忍” の木額が掲げられ、その下にはインド絨毯が飾られていました。
無名舎の庭は中庭と奥庭の二ヶ所ですが、現当主が茶を嗜むため、十年ほどの年月をかけて造られた “供待” の席を設けた露地庭が玄関に施されている。
供待のある露地庭とその番人
供待にはサルスベリの材を使い、傍らには身を浄める建前のための井戸を設け、供待の席の下には時間をかけて集めたという「鞍馬石・賀茂赤玉石・貴船石」など、今は珍しい石が敷き詰められています。
ここを通る客人を確認する様に、にゃんこ様が玄関棟の軒先から顔を覗かせておられました。何故か古い町家には猫がよく似合います。
無名舎「中庭」
店の間、玄関、中の間から鑑賞出来る様に造られた三方正面の “中庭” は、陰影のある石灯篭と高く茂ったシュロチクが印象的。 手水鉢が小判型なのは商家の由来だそうです。
京町屋では、細長い敷地いっぱいに家を建てることはせず、中庭や坪庭のような、余白を敷地内に設けます。 それによって、家全体の風通しが良くなるだけでなく、光を取り込みづらい町屋において、明るい開放感を生み出す1つの方法でもありました。
中庭の向こうに “中の間” そして “奥の間” と座敷が二間続きます。少し薄暗い奥の間と、そこから望む、陽光をいっぱい浴びた「奥庭」のコントラストがとても綺麗で印象深かった。
一階 奥の間から見る奥庭
二階建ての建物が取り囲む中庭は光があまり差し込まないので “陰の庭” と言われ、住居棟と蔵の間にある奥庭は日がよくあたり “陽の庭” と呼ばれているそうです。
細長く左右からの採風が望めない町家で敷地内に庭を二ヶ所設けるのは、二つの庭と室内の湿度の違いによって空気の流れを作り出すという、クーラーや扇風機も無い時代の工夫なんですね。
奥庭にはマキやワビスケといった樹木が植えられ、初冬には白い花が咲くといいます。この奥庭にも、雨に濡れると赤く光るという大きな鞍馬石や白川石、賀茂石といった京の名石が使われているとか。
庭の景観を楽しめ陽当たりの一番良い京町屋の “奥の間” は一般的に大切なお客を通す座敷とされ、無名舎の様な広い屋敷の場合は二間続きになっています。
また、暑い夏をどう過ごすかを第一に考えられて建てられた京町家は、夏場に “しつらい” の変更を行う習わしがあります。ガラス戸や障子、襖等を、葦戸や簾戸に替えて風通しを良くしながら強い日差しを遮る。 畳にはあじろを引いて、足元から涼しさ感じられるしつらいに替えられます。
江戸時代の町屋は “町人が武士を見下ろさず” の禁制から二階建てを建てる事はなかなか許されませんでした。
明治初期までは “厨子二階” と呼ばれる、二階部分を物置部屋や使用人の寝泊まりに使う部屋とした形状のものが一般的でしたが、明治末期から大正に入ると、二階の天井を高くし居住用として使われる “総二階” が建てられる様になります。
無名舎「二階 奥の間・中の間」
なので、無名舎も総二階という設計から、およそ明治末期以降の建築という事がうかがえるわけです。時代の流れとともに、形状が少しずつ異なるのも京町屋の面白いところですね。
京町家ビジョン
現在、京都市中心部の「京町家」が次々と姿を消しています。
なんと1日2軒のペースで消えているといいます。つい近年までは京町家をセルフリノベーションして住んでいた人も珍しくなかったし、気軽に見学できる京町家も結構多かった様に思います。
取り壊しの背景には、維持管理や修繕の費用負担が大きいことが挙げられています。また、世代をまたいで継承しようにも相続税などの問題から、手放して売却してしまうケースが後を絶たないとか。
祇園や西陣、そして無名舎のある中京の新町通や室町通は、比較的、まだ多くの京町家が多く残るエリアでもあります。それでは無名舎を出て、四条新町界隈の町家建築をブラリと眺めながら、散歩して帰ることにしましょう。
大商家ストリート“新町通”
新町六角通り界隈は文頭にも書いた様に、江戸時代には京呉服問屋や豪商の商家が立ち並ぶ一大商家町として栄えたまち。
京都新町三井家居宅復元平面図
無名舎の向かい側には、720坪の土地を擁した “松坂屋呉服店” があり、北隣には新町通から六角通にかけて1,600坪もの敷地を持つ 三井両替店 と堂々とした八棟造りの大居宅があったという。
もちろん今は影も形もありませんが、この頃の新町通はたいそう賑やかだったことでしょう。
旧川崎家住宅
三井両替店旧跡から六角通を越えて少し歩を進めると、和風建築の後ろに洋館が顔を覗かせる少し風変りな古建築が見えてくる。
室町問屋街随一の豪商と言われた、4代目井上利助が大正15年に建てた豪邸「紫織庵」。昭和40年から平成9年まで川﨑家が使用していました。京都市の指定有形文化財でもあります。
この屋敷は京都にあって町家とはまったく異なる建築で、最大の特徴はFLライト様式の洋館を備えている事。この洋館部分の設計を関西近代建築の父「武田五一」が手掛けています。
旧川崎家は近年、グッチのエキシビジョンイベントやKYOTOGRAPHIE京都国際写真祭の会場として使用されています。
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四条通から “膏薬辻子” を通って
新町通を下り四条通から少し西へ歩くと細い路地 膏薬辻子 が見えてきます。
通り抜けが出来るので、路地ではなく辻子(図子)というのですが、京都には家と家をぬうように、様々な形の “路地” や “辻子” といわれる細い道が数多く点在しています。
膏薬辻子は四条通から南に入ったあと、途中2回かぎ型に曲がり綾小路通まで続きます。短いながらも石畳が敷かれ、所謂 京都っぽい趣がある辻子なのですが、少し分かりずらいのか? いつ通っても人の通りは少なめです。
杉本家住宅
膏薬辻子を抜けて綾小路通に出ると現れる、超巨大な堂々たる風格の京町家 杉本家住宅 が長々と続く。1870年(明治3年)に建築された京都市内でも最大規模の町屋で、平成22年に重要文化財に指定されています。
京格子に出格子、大戸、犬矢来。厨子二階の土壁造りに櫛目の虫籠窓。お手本の様な京町家の外観ですね。
杉本家は「奈良屋」の屋号で呉服商を創業し、京呉服を仕入れて関東地方で販売する、京商人として繁栄した家柄だとか。
こちらの町屋は不定期開催ではありますが一般見学が可能です。内部の撮影は出来ませんが、古建築好きなら一見の価値有。最後に公式HPリンクを貼っておきますので、興味のある方は是非チェックして訪れてみて下さい。
あとがき
今回メインで見学させて貰った、京都生活工藝館「無名舎 吉田家」は、当主の吉田考次郎氏が実際に住んでいる居住空間を見せて頂くというもの。
予約制ですがゆっくりと四季折々の京町家の風情を愉しむ事が出来ると思います。
現在、減少の一途をたどる京町家ですが、京都の歴史を伝える文化財として、一棟でも多くの京町家が後世に残って欲しいものです。
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今回行った場所
無名舎
三井両替店旧跡
旧川﨑家住宅
膏薬辻子
杉本家住宅 公式ホームページ