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山口

英雄を育む長州藩のまち「萩」と明治日本の産業革命遺産を巡る

更新日:

S.L
歴史まち 萩へ !

全国1億2千万の幕末ファンの皆様こんにちわ。

幕末から明治時代にかけての動乱期、怒濤の時代を切り開き、近代日本の礎をつくった志士を数多く輩出したまち 山口県 “萩” 。 往時を偲ぶ歴史情緒が色濃く残る萩のまちは、歴史好きや幕末ファンにとっては一度は訪れたいまちですよね。

個人的に萩に訪れるのは2回目になるのですが、今回は、幕末の雄藩 長州藩 の志士を育んだ萩のまちと、世界遺産である “明治日本の産業革命遺産” を巡ることを目的にやってきました。




人をつくった “長州藩” と “萩”

幕末の長州藩と言えば 尊王攘夷派 ながら、御所に大砲撃ったり、天皇拉致を目論んだりと、ちょいと危ない過激派集団というイメージがありますよね ? そんな長州藩士たちが育った萩はとても小さなまち。


長州藩 奇兵隊隊士

維新半ばに命を散らすも、時代に大きな影響を与えた藩士や、討幕を成し遂げたあとも明治新政府の要職に名を連ねた多くの藩士が長州藩の城下町、萩から生まれます。

また、小さな萩のまちだけで伊藤博文を筆頭に4人もの総理大臣を輩出し、歴代内閣総理大臣の出身都道府県別ランキングでは山口県はダントツ1位で、安倍晋三を含め8人も輩出しています。

ちなみに我がまち “大阪” は無理矢理ならされた感が満載の2人だけ。 終戦を牽引した鈴木貫太郎はめっちゃ偉大だと思いますが…

(左)旧湯川家屋敷 (右)高杉晋作旧邸

さて、三角州の小さなまち “萩” は、何故、後世に名を残す多くのビッグネームたちを生む事が出来たのか ?  何で明治期の偉人には長州出身者が多いのか ?  前々からそんな素朴な疑問がありました。

今回、改めて萩に訪れて私塾や藩校を巡り、やっぱり長州藩は “人への投資・教育水準がすんげー高い藩だった” という事が良く分かった。「若者に期待し、若さに託す」そんな教育風土が、熱い想いを持った志士を育んだのだろう。

幕府に内緒で、密航してまで英国留学をさせた 長州ファイブ はそれの最たるもので、とても、商人(あきんど)のまち大阪では、難波ファイブ なんぞ絶対に生まれなかっただろうな・・・


明倫学舎

日本三大学府に数えられた長州藩の大藩校 明倫館 。そして、藩校で学んだ者が自ら “郷校” や “私塾” を開き、そこで学んだ者が “寺子屋” を開いて庶民に教えるという教育のサイクルができあがっていた様です。

安政の大獄で吉田松陰を失い、池田屋事件、禁門の変、下関戦争と、連戦連敗のKO寸前フラフラ状態になりながらも、薩長同盟を経て、倒幕、維新を成し得た後に多くの政治家を輩出したのも、長州藩が人をつくる事に尽力した結果なんだと思う。

明治日本の産業革命遺産とは


長崎市 端島炭鉱 (軍艦島)

2015年に世界遺産に登録された 明治日本の産業革命遺産 は8県11市に23もの資産が点在しています。

そのなかの5資産が萩にあるのですが、はっきり言って、世界遺産登録された意味を知らないと、全く面白くもないし、個々の登録遺産に見応えがあるっていう訳でもありません。僕自身、写真を撮っていて「おぉ・・絵になるなぁ」なんて感じたのは、萩城下町ぐらい。

そもそも「明治日本の産業革命遺産」は、8県にもまたがっている上に、製鉄、製鋼、造船、石炭と、構成される産業も様々で、遺跡があったり、城下町があったり、何をするのかよくわからん反射炉があったり・・と、その関連性もよく分からない。

では、こうした構成資産で何を証明しようとしているのか?

(右)  萩城下町「日本の道百選 : 菊屋横丁」

「明治日本の産業革命遺産」は、かつての日本が、265年続いた江戸幕府政権から討幕を経て明治維新を迎え、西洋列強の植民地化を免れるために自力で国の近代化を目指し、かつ半世紀という超短い期間で、産業の大躍進を遂げた “歴史的価値” を証明しようというもの。

また特定の産業ではなく、 “日本の近代化” という 「時代」 そのものを証明する遺産だと言えます。

「明治日本の産業革命遺産」の全体像も、試行錯誤を重ねた1850年代の幕末期から、産業基盤を確立させた明治時代後半まで、約60年の歩みが時系列的に分布されている。 


出典 : 明治日本の産業革命遺産

萩の世界登録遺産5つは全て幕末の長州藩時代に出来たものなので、明治時代のものではないし、産業革命に直接関わるものばかりではない。

しかし、日本が近代化に突入してゆく導入部分の序章プロローグ として考えれば、何故、これらが世界遺産登録されたかが少し理解出来る気がする。 それでは、さくっと萩の産業革命遺産を巡ってみましょう。



松下村塾

長州藩における尊王攘夷運動の指導者 “久坂玄瑞くさかげんずい” 。奇兵隊を率いた長州藩の革命児 “高杉晋作” 。初代内閣総理大臣 “伊藤博文” 。第3代9代内閣総理大臣 “山縣有朋やまがたありとも” 。幕末の日本を牽引した長州の若者たちは、一軒の私塾出身者たちだった。

その私塾が「松下村塾」であり、彼らの師の名を吉田松陰よしだしょういん という。

吉田松陰が志していた “尊王攘夷” とは、よく誤解されがちな 「ずっと鎖国を維持して天皇制を守ろうぜ ! とにかく外国人を追い払おう !」  などというイデオロギーではなく、 「海外の文明はかなり進んでいるので、まずは異国の文化や技術を盗んで、外国と対等に戦える国力をつけようぜ !」 いう考え方でした。

松蔭は、伊豆・下田に停泊していたペリー艦隊へと乗り込んで密航を図ろうとした罪で江戸の獄へ護送され、更には萩の野山獄へ移される。この野山獄で松陰が始めた講義が、その後の松下村塾のルーツだという。

井伊直弼いいなおすけによる「安政の大獄」によって、斬刑に処せられて30年という短い生涯を終えてしまうのですが、吉田松陰の豊かな才能と志は多くの塾生たちに引き継がれ、明治維新を成し遂げる原動力となりました。

松下村塾の世界遺産登録には様々な意見があった様ですが、幕末から明治維新にかけて “日本の近代化・産業化に貢献する人材を数多く輩出した歴史的価値のある資産” と考えれば合点がいくのではないでしょうか。

萩城下町

長州藩の藩祖 “毛利輝元” は、関ケ原の戦いに西軍の主将として挑むもののあえなく敗戦。それまでの領地を三分の一まで削封されます。 新たな拠点を広島から “萩” へ移した毛利輝元は、指月山に居城を築き、広大な手付かずの領地に城下町を開いた。

でき上がった萩城下町は、萩城の周囲に 「堀内」 と呼ばれる上級武士の屋敷を配置、その南方に中・下級武士の屋敷、さらに東方には町人の屋敷を設ける形を取ります。典型的な近世の城下町スタイルですね。

毛利輝元の城下町づくり思想は、天下人・豊臣秀吉が行った「居城と城下町を一体化し、政治・経済の中心地として機能させる」という考えに結構な影響を受けているみたい。 と思うと、大阪人の僕は一気にこの町に親しみを覚えた。

木戸孝允旧邸

現在も萩城下町は江戸時代の佇まいが色濃く残り “古地図が今でもそのまま使える” ほど、当時の町割りなどがよく保存されています。

まちを歩いてみて面白かったのは、広々とした敷地を持った上級武士の屋敷が立ち並ぶ堀内エリアは、結構、閑散としているにもかかわらず、桂小五郎(木戸孝允)や高杉晋作など幕末の英雄たちの旧家が点在する中級武士の屋敷エリアには観光客がわんさか。

当時の英雄は逆だったのにね。歴史と言うのはある意味、残酷なものである。

萩反射炉

幕末の動乱劇は 1853年(嘉永6年)4隻の艦隊が、黒塗りの大船体の煙突からもうもうと煙をあげて浦賀港へ来航した事から始まった。アメリカの “ペリー提督” 率いる 黒船艦隊 である。

威嚇するように船体に設けられた大砲の総数は73門。彼らの目的は200年鎖国を続けた日本を開国させる事にあった。


黒船来航

そっから日本中はドえらい騒ぎになる訳です。「おいおい、あんなごっつい大砲を撃ち込まれたらひとたまりもねぇべよ !」「おうよ、俺らが持ってる大砲と全然違げーわ。 ちょっとあれと似たやつを俺達でも作ってみよーぜ !」

という経緯で、各藩が競う様にして、これまで使っていた “青銅製” の大砲より、威力・飛距離・命中精度、あらゆる面でスペックが高い “鉄製” の大砲づくりを始めます。

当時の日本の製鉄技術は、欧米のそれと比較してぶいぶん遅れをとっていました。 その決定的な違いが 反射炉 の開発にあった様です。 反射炉とは簡単に言うと、鉄鉱石から取れた “銑鉄” を溶解、製錬し、強靭な “錬鉄” に変えることができるものらしい。詳しい仕組みは全くわからない。

長州藩は、諸藩に先駆けて反射炉の建築に成功していた佐賀藩に「頼むから、作り方を教えてくれ !」と教えを請うも、あっさりと伝授を断られてしまう。 なんとか見学だけは許されたみたいで、見よう見まねで長州藩も反射炉の建築に取り掛かった。それが、この反射炉という事です。

でも結局、この萩の反射炉は失敗作だったみたい。 「なんとなく錬鉄っぽいものが出来たかなぁ ? 」 ぐらいの感じだった様です。 萩反射炉は実用に供されなかった試作品とはいえ、 “日本が自力で近代化を歩み出した貴重な遺構” として世界遺産登録されました。

恵美須ヶ鼻造船所跡

ペリーショックで、江戸幕府が諸藩に解禁したのが、それまで200年近く禁じていた “大船の建造” 。 浦賀警備にあたっていた長州藩には 軍艦製造 の命が下された。

当初、長州藩は財政難を理由に造船を渋っていましたが、長州藩士 桂小五郎が提出した軍艦製造の意見書を受けて、船大工の尾崎小右衛門を江戸と伊豆に派遣し、その後、この恵美須ヶ鼻に軍艦造船所を設立します。

この造船所では、ロシアの造船技術を用いた “丙辰丸へいしんまる” と、オランダの造船技術を持ちいた “庚申丸こうしんまる” の2隻の洋式木造帆走軍艦が建造されたという。


(上)丙辰丸 (下)庚申丸

なんかこの造船所跡は、ちょっと残念な感じの歴史遺構でしたねぇ…。だって普通に地元の小中学生が、造船所跡で釣りなんかしてるもんね。もうちょい演出とか頑張って欲しいなぁ・・。 一応、世界遺産なんだから。

ここで造られた軍艦の復元モデルなんかを停泊させたりしたら、萩の美しい海と相まって、もっと歴史情緒が増すのになぁ・・ などと、勝手な妄想を抱きながら最後の世界遺産へ。

大板山たたら製鉄遺跡

鉱山に恵まれていた長州藩領では、金・銀・銅・すず・鉛などが豊富に産出されていました。 製鉄業に関する遺跡も結構な数が発見されている様で、その代表格が、こちらの 大板山たたら製鉄遺跡 だという。

「たたら製鉄」とは、日本独自の発展を遂げた “砂鉄” を使用する製鉄方法で、その歴史は6世紀後半に朝鮮半島から技術が伝わったというからかなり古い。こちらの製鉄所は、幕末期以前にも江戸時代中期から、度々、稼働していたようである。

製鉄といっても、幕末に必要とされた対異国用の大砲をつくる様な鉄は、易々とは出来なかった様で、軍備の西洋化には、先程の反射炉や高炉の研究と建築が進められた。

恵美須ヶ鼻造船所で建造した1隻目の西洋式帆船「丙辰丸」を建造する際に、大板山たたら製鉄所で作られたものが “船釘” などの部品として利用されたそうです。

こちらの世界遺産も、繋がりが分からなければ何だかよく分からない遺跡ですが、製鉄所跡のすぐ近くに「大板山たたら館」という展示休憩施設があって、ここの、おばちゃんがめちゃめちゃ詳しく説明してくれます。

萩というまちは、観光文化が古くから根付いているのか、地元の方々の観光客に対する “おもてなしホスピタリティ” が非常に高いことが、とても印象に残った。

あとがき

西洋列強の脅威から始まった幕末の動乱劇。 例に漏れず、わが大阪人はどこ吹く風で、我れ関せずだった様ですが、危機感を強く持った西南雄藩を中心に海防力強化のため産業近代化への試行錯誤が行われました。

(左)伊藤博文旧宅 (右)口羽家住宅

明治維新を牽引した雄藩 “薩長土肥” のなかでも、とりわけ異色の存在といった感がある長州藩。

「民を救い、日本を守るにはどうすればよいのか」という、吉田松陰が発した「熱」のもと、この小さなまちから日本を変えた人材が多く育まれたルーツみたいなものが、今回の旅で少しばかり見えた気がする。

萩の世界遺産も時代背景がわかると、なかなか感慨深いものがあります。 僕的には歴史まち萩を、腹一杯満喫できた旅行でした。

では、また!



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今回行った場所

松下村塾

萩城下町

萩反射炉

恵美須ヶ鼻造船所跡

大板山たたら製鉄遺跡

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