吉備津神社 回廊
日本に残る有形・無形の文化財を、国内外へ発信する文化庁の日本遺産事業。それは、歴史的文化や伝統を語る “ストーリー” を 日本遺産 として認定し、地域の取り組みを支援するというもの。
文化遺産の価値付けを行い、保護や保存する事を目的とする「世界遺産」とは少し異なり、新たな視点で文化遺産の魅力を発信し “活用” することで、地域活性化を図ることを目的としています。
まだまだ日本遺産って少しマイナーな感じがありますが、美しい国「日本」がうまくプロモーションされていて、実は結構、面白いんですよ !
日本遺産(Japan Heritage)は、文化庁が認定した、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリーである。
出典 : wikipedia 日本遺産公式HP
今回は岡山県に関する2つの日本遺産ストーリーと、それらにまつわる建築に少しばかり触れてみた。
岡山藩による日本最古の庶民学校
岡山県備前市の 閑谷学校 (しずたにがっこう)は、江戸時代前期に岡山藩によって開かれた庶民のための学校。現在は「旧閑谷学校」として特別史跡に指定、江戸中期1701年(元禄14年)建築とされる講堂は国宝にも指定されています。
岡山藩初代藩主 池田光政 は、諸藩が設立した、藩士の子弟の教育を目的とする “藩校” だけではなく、地方の指導者を育成するために庶民の子弟も教育することを旨とし、“庶民学校” を設立した。
旧閑谷学校校門「鶴鳴門」 備前焼瓦葺
まだ2歳の池田光政が、67歳の徳川家康と初めて謁見した際、家康が 「あやつの眼つきはただ者ではない」 と言ったという伝説が残っています。 かの大将軍も一目置いたというだけあって、その後の人生も、人としてかなり優れたお方だった様ですね。
藩に財政的な余裕はなかったものの “質素倹約” と “教育” を主軸とした政治を行い、年貢を上げることもしなかったという。 人里離れた山の中に学校を建てたのも、たまたま通りかかった時の「この静かで自然豊かな環境は勉強するのにぴったりだ!」という発想がきっかけだとか。
光政が頭で描いたであろう「理想の学舎」が具現化された講堂は、山の自然の中に身を置く様にして佇んでいる。
入母屋錣葺きの大屋根には備前焼瓦が用いられ、堂内の外壁には寺社建築でよく見られる火灯窓が配されていて、壮重な外観を形作っています。 内部は10本の欅の丸柱で支えた内室と、その四方を囲む入側縁で構成されている。
「国宝」 閑谷学校 講堂
磨き抜かれた拭き漆の床が火灯窓から入る光をやわらかく反射させ、澄んだ水面の様な静けさが流れる講堂内。確かに学問に勤しむにはうってつけの環境だと思う。
以下、この閑谷学校が “近世日本の教育遺産群” として日本遺産登録された背景となる、興味深い一文を引用します。
「 外国人から見た近世日本の姿 」
近世日本を訪れた外国人は、紀行文に日本人の様子を書き記しています。
イギリス領時代のカナダ出身の冒険家、ラナルド・マクドナルドは「日本回想記」の中で、「日本人のすべての人 〈最上層から最下層まであらゆる階級の男、女、子供〉 は、紙と筆と墨を携帯しているか、肌身離さずもっている。
すべての人が読み書きの教育をうけている。また、下級階級の人びとさえも書く習慣があり、手紙による意思伝達は、わが国におけるよりも広く行われている。」と述べています。
また、イタリア人宣教師、アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノは、「日本巡察記」で「人々はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。一般庶民や労働者でもその社会では驚歎すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。
この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我等ヨーロッパ人よりも優れている。」と記録しています。これらの記述からは、当時の日本人が、他の諸外国と比較して、身分や性別を越えて高い読み書き 能力を持ち、礼儀正しさを身につけていた様子が分かります。
こうした教育の伝統が継承され、明治維新後の日本の近代化が進められたことをロナルド・ドーアなどの欧米の研究者は、「近世日本の教育こそが日本近代化の知的準備をした。」として高く評価しています。
このようなエピソードからも分かるように、近世の日本では高い教育を受けた層が社会全体に広がっていました。外国人にとっては、一見しただけで相手の身分を判断することは困難なほどでした。
出典 : 日本遺産ポータルサイト (STORY#001 近世日本の教育遺産群)
「学問の殿堂」旧閑谷学校では、日曜日になると論語の朗誦(ろうしょう)が静かな山間に響き渡り、300年変わらぬ風景をつくり続けている。
桃太郎に会いに行く
誰もが知ってる日本の昔話 桃太郎 。 そのルーツは古代日本 “吉備国” にあった。
吉備国は現在の岡山県全域と広島県東部と兵庫県西部にまでまたがり、大和国・出雲国と並ぶ有力な勢力の一つでした。
吉備津彦命(きびつひこのみこと)という日本神話にも登場してくる古代の皇族が、吉備国で猛威を振るっていた、温羅(うら)という鬼を退治したという伝説が後世に引き継がれ、昔話の桃太郎による鬼退治の原型となったとされています。
この伝説の主人公であり桃太郎のモデルになった吉備津彦命を祀るのが 、吉備の中山に鎮座する 吉備津神社 。
吉備津神社 回廊
「鬼退治の伝説」
その昔、岡山(吉備)平野が吉備の児島に囲まれた内海だったころ、人の身の丈をはるかに超える “温羅” と呼ばれる鬼は、平野を見下ろす山の上に城を築き、村人を襲い悪事を重ねていた。
大和の王から温羅退治の命令を受けた “吉備津彦命” は、吉備の地に降り立ち、吉備の中山に陣を構え、その西の小高い丘の頂には温羅の矢を防ぐ巨石の楯を築いた。
弓の名手であった命は、岩に矢を置き温羅に向かって矢を放つ。温羅も応戦し城から矢を放つが、互いに放った矢は何度も喰い合って落ちていった。しかし、命が力を込めて放った矢は、ついに温羅の左目を射抜く。
温羅の目からは血が吹き出し、川のように流れたという。たまらず雉に化けて逃げる温羅を、鷹になった命が追う。温羅は雉から鯉に化けて血の流れる川に逃げたが、命は鷹から鵜となり、鯉を喰い上げ、見事に温羅を退治した。
出典 : 日本遺産ポータルサイト (STORY#064 「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま)
「桃太郎伝説」発祥にまつわるストーリー自体が日本遺産となっているので、その構成文化財は岡山県内の4市に点在しています。きびだんごまで構成資産に入ってるのがなんとも微笑ましい。
桃太郎伝説に最もゆかりのある吉備津神社はパワースポットとしても有名で、本殿や拝殿は国宝にも指定されているのですが、建築屋の僕的に最も興味をそそられたのが、総延長398mにおよぶ木造の 回廊 。
造営は戦国時代の天正年間(1573年ー1591年)とされているので、距離だけではなくその歴史も長い。 龍の如くどこまでも続く回廊をてくてくと歩いていると、どこか遠い時代へと誘われる様な錯覚さえ覚えた。
今回行った場所
旧閑谷学校 公式ホームページ
吉備津神社 公式ホームページ