文豪に愛された町
かつて、東京の文京区には大文豪といわれた先生方が、数多く住んでいたという事をご存じでしょうか?
近代文学の潮流の中心地として、文学と共に発展してきたともいわれる文京区は、旧帝国大学(現東京大学)がおかれた本郷地区を中心に、学問に必須である出版や印刷業が栄え、多くの知識人や文化人が集まりました。
同時に小説家や詩人たちが界隈に居を構え、後世に残る優れた作品が多く生まれます。 有名どころでは、 森鴎外・夏目漱石・樋口一葉・石川啄木・正岡子規・谷崎潤一郎・川端康成 などなど、誰もが一度は耳にした事があるビッグネームが名を連ねます。
二大文豪が住んだ家
明治時代、森鴎外、夏目漱石という二大文豪が、文京区のとある一軒家に偶然にも時を変えて住まいました。特に豪邸という訳でもなく、当時、どこにでもあった一般的な中流の貸家住宅です。
百年以上経ったも現在も大文筆家として知られる二人の所縁となった家。そんな世にも稀な住宅が、愛知県の明治村に場所を移し、往時の面影を残したまま美しく保存されています。
もともとは明治20年頃に、東京牛込の中島利吉という実業家が、医大生であった息子のために医院併用の居を目的として建てた家だったそうです。しかしこちらの息子さんは、勤め先の都合でこの家に住む事なく、そのまま貸家に出されてしまいました。
明治23年9月、新築のまま空家となっていたこの家を、まず 森鴎外 が住処としました。
すでに陸軍軍医として勤務する傍ら文筆を執っていた鷗外は、ここで文学評論雑誌「しがらみ草紙」の刊行を続け、我が国の初期浪漫主義の作品とされている小説「文づかい」等を執筆。この家は千朶山房と呼ばれ、鷗外の活発な文芸活動を支えました。
吾輩は猫である、執筆の間
そして十数年の時を経て、明治36年3月、夏目漱石がこの家の主人となります。
この時、漱石は英国留学から帰国して間もない37歳の頃。東京帝国大学文学部などで、英語や英文学を講義することになり、妻と二人の娘と共に、一家で仮住まいしていた妻の実家を出て、この家を借りることになりました。
漱石は明治39年までの約3年半の間を、生活と文筆活動の場として過ごし、「坊ちゃん」「草枕」そして「吾輩は猫である」など、多くの作品をここで執筆したと言われています。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。」という書き出しで始まる名作は、夏目漱石の長編小説であり、処女小説でもあります。
主人公「吾輩」のモデルは、漱石37歳の年に夏目家に迷い込んで住み着いた、野良の黒猫である事は良く知られていますよね。
のちに周囲から「猫の家」とも呼び習わされるようになったといいますが、しかし「この家は家相がとてもよかった」と、身内も語っていたらしく、巽の方角(東南)に張り出した位置に書斎を設けたことで、作家としてよいスタートが切れたのだとか。
3年半、暮らしたこの家にかつて森鴎外が住んでいた事を、漱石は最後まで知ることはなかったそうです。
一方の鴎外は、自己年譜の覚え書きのためにつくった「自紀材料」に、朱筆で「この歳、本郷区駒込千駄木五十七番地に就居す。この家、後に夏目金之助の宅となる」と記しています。知ってたんですね。
この家からバンバンと名作を脱稿してゆく夏目漱石を見て、「うーん、我輩ももう少し長く住んでみてもよかったかな…」などという事が、森鴎外の脳裏によぎったのかなぁ。。などと考えると、微笑ましくもなる。
ちなみに漱石は、このあと2度の引っ越しをしますが、終生、借家暮らしだったようです。本当に文豪って引越し好きですよね。
今回行った場所
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