
旧本野精吾邸
先日、京都市北区の等持院にある 旧本野精吾邸 が一般公開されていたので、いそいそと見学に行ってきた。
大々的な告知はしていなかったのに、久方ぶりかつ1日限りの見学会というという事もあって、結構な数の人が来ていた。 こういう折に触れる度に、世の中には建築ファンというのが案外多いものだなぁ…と思ったりする。
正午前、ほんの一瞬だけ、奇跡的に人が誰も居なくなった頃合いに撮らせて貰った写真と併せて、建築家 本野精吾 と本野自邸について綴っておきたい。
旧本野精吾邸
コンクリートが剥き出しになったスクエアな外観意匠は、どことなく 安藤忠雄 の建築っぽい風貌だな… と言うのが第一印象ですが、この建築が建てられたのが戦前はおろか、およそ100年前の大正時代だと聞くと、その作り手の人となりに自然と興味が沸いた。
旧本野精吾邸は1924年(大正13年)に完成した、日本における モダニズム建築 の先駆者と言われる 本野精吾 の自邸。
当時の住宅といえば木造が当たり前、かつ様式建築においてもセセッションだの分離派だのが全盛だったこの時代、所謂「大正ロマン」とは程遠い、近未来的な新しさを持った四角い家は、当時の人々にとって、さぞかし前衛的なものだったんじゃないだろうか。
本野精吾 と モダニズム建築
モダニズム建築といえば、今でこそ、「機能的・合理的な造形理念に基づいて、鉄やコンクリートで造られ、不要な装飾がないスッキリとした建築」みたいな 一定の定義というか、そんなイメージがありますよね。
本野邸が建てられた大正後期には、もちろんそんな概念は存在しないし、モダニズム建築の巨匠 “コルビジェ” のフランス作品群よりも早い時期だと考えると、旧本野精吾邸は、時代を超先取りした日本初のモダニズム建築と言えるのではないでしょうか。
本野精吾は 東京帝国大学(現東大)の建築学科出身の建築家。 同級生には、丸の内の “明治生命館” や、中之島の “大阪中央公会堂” で有名な「岡田信一郎」が、2こ下の後輩には私の大好きな「渡辺節」がいたりします。
大正から昭和初期にかけて京都を中心に活躍した本野の作品は、この自邸の他に、山科の疏水沿いに建つ “旧栗原邸” や 上京区今出川通りの “旧西陣織物館” が現存しています。
聴竹居の藤井厚二しかり、当時の京都が育んだ偉大な建築家には、現在もコアなファンが多い気がする。
コンクリート積みっぱなし建築?
モザイクタイルで「本野」と記された 煉瓦積みの門柱を間を超えて建物に近づくにつれ、無機質な建築の全貌にやや圧倒される。安藤建築でおなじみの「コンクリート打ち放し」ならぬ、「コンクリート積みっぱなし」といった様相です。
本野邸は 中村鎮 という方によって発明された特殊なコンクリートブロック「鎮ブロック」を用いた、中村式鉄筋コンクリート工法で建てられています。RC造の先駆けですね。
旧本野精吾邸 外観
L型のコンクリートブロックを組み合わせて中空部を形成し、中空部に鉄筋を組んでコンクリートを打つ。 CB自体が型枠になっているので、そのまま目地を打てば仕上げとなる効率のいい工法ですね。
確か、およそ同時期にF.L.ライトが丸の内に建てた「旧帝国ホテル」も、コンクリートブロックの代わりに常滑産の 特殊煉瓦 を用いた同じ工法で建てたと記憶している。
ワンルーム住宅
日本の住宅は古くから、所謂「田の字」の間取りをベースにし、部屋を用途毎に間仕切って住む文化が定着していましたが、本野邸に限ってはまさにその真逆を貫いています。
狭い玄関で靴を脱いでドアを開けると、天井高の低いL字型の一室空間が一室のみ。 このワンルーム空間に、台所・食堂・居間をコンパクトにまとめています。
旧本野精吾邸
本野精吾 本人は「空気による間仕切り」と言っていた様ですが、息子5人を含む7人がこの空間に住んでいたと考えると、いささか不自由もあったんじゃないでしょうか?
内壁は漆喰を混ぜたモルタル塗りで仕上げられていて至って簡素ですが、昨今、流行りの インダストリアル系 の趣があって、どこか懐かしくも現代風な雰囲気が感じられた。
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今回行った場所
旧本野精吾邸