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銀座「奥野ビル」vs 大阪「船場ビルディング」東西レトロビル徹底比較 !

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S.L
哀愁のビルヂングへ !

レトロ建築めぐりを趣味に持つ僕が、時折、訪れてみたくなるビルが東京と大阪に其々それぞれある。

東京銀座の「奥野ビル」と、大阪船場せんばの「船場ビルディング」である。その風貌や建築自体の趣きは異なるのですが、どこか似通った共通点が垣間見えたりする。


銀座 「奥野ビル」

大東京と大大阪という戦前のモダン都市で、時代の最先端を行くアパートメントビルとして建てられた2つの建築は、有名どころの建築家が手掛けた歴史的価値がすこぶる高い建造物という訳ではないが、現在も普段使いの建築として現役バリバリで働き続けている。

今回は、一世紀近く前に、よく似た時代背景のもとで生まれた、愛すべき東西レトロビルの両雄について綴ってみたい。



船場ビルディング

大正後期から昭和初期にかけて、東京を凌ぐ日本一の商都として大阪が興隆した時代。 時の大阪市を人々は大大阪だいおおさか と呼びました。

THE GREAT OSAKA

人口でも東京を上回り、日本一の大都市となり黄金時代を迎えたのは1925年(大正14年)のこと。 大大阪の中心 “船場” にはこの頃に近代的なビルが次々に建てられてゆきます。同年10月、北船場のど真ん中に 船場ビルディング が華々しくデビューします。

竣工当時、集合住宅とオフィスの要素を合わせ持った革新的なビルとして注目を集め、同時に商業のまち船場という所柄、 装飾性だけではなくトラックや荷馬車などを引き込むのに便利な機能性を兼ね備えた設計が大きな特徴とされていた様です。

淡路町通りに面した船場ビルディングの外観は、こってりとした外観意匠の多い船場界隈の大大阪モダン建築のなかでは、少しだけ地味な印象を受ける。

しかし、エントランスを潜り、整然と並んだ木製レンガが敷き込まれた緩やかなスロープを登って奥へと入ると、その印象は一変し、明るい光が縦へと伸びる緑鮮やかな中庭空間へと繋がっています。

四層吹き抜けの中庭パティオを囲む様にして回廊が配され、外廊下に面して昔は住戸だったであろう専有部が並んでいる。壁はオフホワイト、手摺や窓枠、庇といった装飾類は深緑色に統一されて、どこか古いリゾートホテルの様な趣きを感じさせます。

大正・昭和の当時、ここの住人だったモダンボーイやモダンガールたちが、時代の最先端をいくアパルトマンの回廊をしゃなりしゃなりと歩く姿を想像すると、なかなか絵になる光景である。

およそ100年の時を超えて現存する船場ビルディングは、人気のテナントビルとして現役稼働中ですが、1990年代前半のバブル崩壊後には空室が目立ち、取り壊しの声を聞いた時期もあったといいます。

ビルの存続が懸念された頃は、中庭には荷物や自転車が置かれ、自販機が並ぶ雑然とした状態だったとか。 その当時、このビルに入居されていたデザイナーの働きかけによって、ビルのイメージを一新するリノベーションが施され、竣工当時のモダンさを取り戻したという船場ビルディング。

現在はデザイン事務所やギャラリーなど多種多彩なテナントが入居し、モダンビルの魅力に色を添えています。

奥野ビル

1923年(大正12年)の関東大震災での罹災によって人口の流出を余儀なくされた東京。その影響もあって1925年(大正14年)に “大大阪” が誕生するのですが、首都東京がナンバーワンの名実を取り戻すのにそう時間はかからなかった。

THE GREAT TOKYO

1932年(昭和7年)10月、東京市は市域拡張によって15区から35区へ増加し、いわゆる大東京だいとうきょう が誕生する。この時の東京市の人口はニューヨークに次ぐ世界第2位となります。その同年、銀座屈指の高級アパートメントが颯爽さっそうとデビューします。

そのビルヂングの名は「銀座アパートメント」。 現在は 奥野ビル の名前で多くのテナントが入るレトロビルとして、目下 現役稼働中です。 辺りにスタイリッシュで無機質なビルが立ち並ぶなか、奥野ビルだけ異彩を放って佇む対比がとても印象的。

先代のオーナーが、関東大震災で同地にあった工場を消失し、「大地震にも耐え得るビルを…」との願いを込めてこの奥野ビルを建築したという。 そう言われると、茶褐色のスクラッチタイルで覆われた外観意匠が、屈強なイメージを与えている様にも見える。

どういう経緯か分からないが、奥野ビルは2つの建物がシンメトリーに建てられたうえで連結されていて、向かって左側の本館が昭和7年、新館と呼ばれる右側が昭和9年の竣工と、2年のタイムラグがある。内部に入ると連結された構造がよくわかります。

本館のエントランスと一階の階段周りには、光の加減によって青にも緑にも見える布目タイルが整然と並んでいる。何とも言えない妖艶さを纏ったこの布目タイルが昭和の名建材 “泰山たいざんタイル” の持つ雰囲気にとても良く似ている。


奥野ビル 「布目タイル」

奥野ビルを設計した 川元良一 は、東京帝国大学建築学科で 内田祥三 に学び、同潤会の建築部長を務めた人物。師である内田祥三が設計した港区の国立公衆衛生院(現 ゆかしのもり)にも泰山タイルが使用されている事から、ひょっとしたら? という期待も持てる。

この時代の近代建築は色んな想像をかき立ててくれて面白い。情報をお持ちの方は是非ご教示頂きたい。

日本初の民間住宅用エレベーターを備え、銀座屈指の高級アパートとしてデビューした奥野ビル。 人口増加に伴って、当時、盛んに建てられた家族用の住居とは一線を画したお洒落なアパルトマンには、数多くの文化人が住んでいたようです。

時代の移り変わりによって、いつしか店舗や事務所が入る様になり、昭和32年に事務所ビルへと用途変更されます。 現在はビル内に複数のギャラリーやアンティークショップなど入り、レトロなアートビルとして不動の人気を得ている奥野ビル。

現代の建築では醸し出すことが出来ない、路地裏に迷い込んだ様なアンダーグラウンドな雰囲気がその大きな魅力なのだと思う。

まとめ

大大阪 と 大東京 。奇しくも両都市が誇らしげに頂点てっぺんを迎えたその年にデビューした2つのビル。

「日本一の都市」の名に恥じない様に創意工夫された2つのビルは、其々の「グレートシティー」を象徴するシンボルであり、そこに住むという事が大都会人たちのステイタスだったに違いない。


昭和期「大東京 銀座通り」

日本はこれまで、古いものを壊して新しいものを作る “スクラップアンドビルド” を繰り返しながら前へ前へと進み都市発展を続けてきました。しかし昨今、古い建築の良さが見直され、コンバージョン(用途変更)によって新たな活用がされるケースも随分増えた様に思います。

およそ一世紀前、世の最先端を行く高級アパートとして華々しくデビューし、時代と共に形態を変えながらも、それぞれの大都市に根を張った東西レトロビルの両雄には大きな存在価値があるのではないだろうか。



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今回行った場所

船場ビルディング

奥野ビル

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