造幣局「泉布観」明治時代の息吹を伝える大阪最古の洋館

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S.L
大阪最古の洋館へ!

水の都、大阪の中心部を流れる大川のほとりに現存する大阪最古の洋館 泉布観せんぷかん 。激動の明治維新の最中に生まれた重要文化財は年に数日間だけその門戸を開き、明治時代の息吹を現代の我々に伝えます。

造幣寮 “泉布観”

江戸時代、日本経済の中心地として隆盛を誇り “天下の台所” とまで謳われた大阪が、東京奠都をはじめとする明治維新変動の波を受け、一時的にその経済が危ぶまれた時期がありました。

疲弊した大阪を再び一大商都へと導いた立役者「五代友厚」をはじめとした明治新政府は、明治4年に貨幣をつくる一大洋風工場群 “造幣寮” を大阪の天満川崎の地に設置し、大阪の近代工業の礎を築きます。 “造幣寮” は現在の造幣局。

浪花新景 「川崎金吹場」  ※右端が泉布観

泉布観は造幣寮の応接所として建てられたもので、造幣寮の一連の施設同様、明治4年に完成し、いまも現地に残る唯一の創業当時の建造物。また、煉瓦造二階建の建築としては日本に現存する最古のものとされています。

“明治時代” という響きだけでいうと、文明が開けた後の近代的なイメージがありますが、明治4年といえば、まだ江戸時代の名残りが色濃く残る動乱の時代。まちにはまげを結った大阪町人が行き交っていただろう。

造幣寮創業式 1871年(明治4年)

廃藩置県が行われ、岩倉使節団がアメリカへ旅立ったのが同じ明治4年のこと。大久保利通や木戸孝允ら、維新の雄たちが会した “大阪会議” が北浜の花外楼で行われたのが明治8年なので、ひょっとしたら彼らもこの建物に訪れたかもしれない。

その様な時代背景において建てられた造幣寮の建築群は、日本が西洋列強と並ぶ国へと急いだ、言わば “大阪の近代化” の象徴なのです。

明治天皇と泉布観

宮中に暮らし、人前に姿をあらわす事のなかった江戸時代の天皇とは異なり、 “行幸” で多くの人びとにその姿を焼きつけた明治天皇も、生涯に3回、泉布観を訪れています。 (行幸 = 天皇の外出)

建築当初、単に造幣寮応接所と呼ばれていたこの建物を「貨幣の館」を意味する泉布観と命名したのも、造幣寮操業開始の翌年にここを訪れた明治天皇自身によるもの。江戸から明治へ、和装から洋装へと変化した天皇を迎える館として、泉布観や造幣寮の建築群は良い舞台となった様です。

コロニアル様式の明るい洋館の外壁は煉瓦積みで外側を漆喰塗りで仕上げ、外周には花崗岩の柱をめぐらせている。 外回りの窓は創建当初からフランス窓(床面から立ち上がる扉のような窓)で、各居室からベランダに出られるようになっています。

建物は正面を大川に面して開き、当時は舟運が交通の動脈であったことを伺わせる。泉布館には明治期を通して日本の皇族や外国の要人がたびたび訪れ、大阪の迎賓館的な役割を担ったという。

明治初期の面影を残す内部意匠

泉布観を設計したのはトーマス・J・ウォートルス。1842年生まれのアイルランド人で、当時はまだ26歳。後に東京に移り銀座煉瓦街などを手掛けたことでも知られています。

明治期の洋館といえば、華やかでこってりとした意匠を想像しますが、泉布観の内部は至って簡素なもの。それは泉布観の竣工が、他の明治建築と比較して突出して古いことが理由のひとつとして挙げられる様です。

泉布観は明治期に3度の改修工事が行われています。築18年目にあたる明治22年に施された2度目の改修工事で、泉布観をより本格的な洋風の設えにしたと考えられています。

装飾タイルが用いられた暖炉が完成したのも2度目の改修時。床には英国王室御用達だった陶磁器メーカーMINTON社製の花柄タイルが用いられ、側面タイルには神殿をモチーフにした図柄が描かれている。

明治天皇が3回目に泉布観を訪れたのは明治31年のこと。最初の行幸から26年が経っていました。建築の西洋化が急速に進んだ明治時代も中期以降になると「辰野金吾」や「片山東熊」などの日本人建築家が成熟しています。

その頃には、既に泉布観はもはや最先端の本格的な西洋建築ではなく、明治初期の行幸に関わる記念建造物的な位置付けにあった様です。

3度目の行幸に合わせて施工された泉布観の改修工事を手掛けたのが、現在の川島織物の創始者「二代目 川島甚兵衛」と、日本洋家具の父といわれた「杉田幸五郎」の両名。川島が織物を中心とする内装を、杉田が主に全体計画や調度品などを手掛けます。

泉布観「王座の間」

川島と杉田による内装をよくとどめているのは、天皇行幸の際の御座所が設けられた “玉座の間” 。 壁面は真紅の裂地きれじで仕上げられ、黒塗りの幅木と、長押状の金色のモールディングが良いアクセントになっている。カーテンは金色に輝き床面にゆったりと裾をなびかせています。

参考文献 : 建築を彩るテキスタイル ー川島織物の美と技ー

あとがき

江戸から明治への大きな時代の変化を大阪の人びとに印象づけた泉布観。また、造幣寮は 断髪・廃刀・洋服の着用 などを率先して行い、近代工業・文化の興隆に役割を果たしました。

泉布観は、明治政府が設置したごく初期の洋風建築としてだけではなく、幕末以降に日本が新しい国へと変化することを求められた、明治の息吹を伝える歴史的意義の大きい建築だと思う。

昭和31年に国の重要文化財指定を受けている泉布観は、例年、春に3日間だけ一般公開されています。

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